完全義務・不完全義務感の発生基準
義務論をベースに義務感の発生基準と完全義務・不完全義務のいずれになるかの基準を解説。ここでの義務論は筆者なりのもので、カントのものとは微妙に違いますのでご注意を。(2013.5.25)
怒りとあわれみについて修正(2014.6.13)
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補足
格率と義務
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格率は「~しなければならない/~してはならない」という形式をとる。
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「~してもよい」は格率ではない。しかし、「~されることを受忍しなければならない」は格率である。
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検討の対象となる格率は常になんらかの行動選択における選択肢から取ってこられる。したがって、より正確には、格率は「行動選択Sにおいては選択肢Snの行動を選択しなければならない」という形式をとる(その意味で格率は常に条件付きである。カントはこの点を見落としていた)。利己的計算の結果、選択肢たる格率のうちで損益が最大となった一つ、かつその一つだけが義務となる。ただし、行動に選択肢のない状況では義務は発生しえない。
利害
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利己的計算では、その格率を他人に履行してもらうことによる利益も考慮する。人がある格率を義務と認めて履行するのは、それを他人に履行してもらうことに利があるからである。自分が履行しないと、他人から見てその格率を義務と認めることに利が存在しなくなるため、他人はそれを義務と認めようとしなくなってしまう。それを防ぐために履行するのである。
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利害計算が義務の根拠となるので、行為者が決断時に持っていた状況認識を元に適用すべき格率が決まることになる。「味方は殺してはならない」と「敵は殺さなければならない」のどちらを適用すべきかは、本人が相手を敵味方のいずれと思っていたかで決まる。実際にどちらだったかで決まるのではない。
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相手を敵と認識しているとして、「人間は殺してはならない」と「敵は殺さなければならない」の葛藤が生じたときは、後の方がより具体的である(情報量が多い)ので後者を適用すべきである。一般に、平均的にどちらが利になるかの期待値は観測者の持っている情報量によって変わり、なるべく具体的に考えた方が利が大きくなるからである。つまり適用すべき格率は状況についての情報が増えるたびに動的に変化していく。
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こうなると功利主義そのもののようだが、それでも違いがある。それは、功利主義は実際にはどうだったかという後付けの理屈を認めるが、義務論では認めないからである。功利主義は倫理規範の行為規範性を見落としているというべきであろう。
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利害推定のための情報が不足であることにより利己的計算が行えない場合は、義務の発生は保留されるが、それを可能にするための情報収集が義務となる。これが過失責任の根拠となる。完全義務か不完全義務かは、原則通りに決まる。
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利益とは一義的には私的欲求の満足(が容易になること)を指す。ただ、上述のような論理で、義務の履行(が容易になること)も利益の一種に含まれることとなる。
格率を生み出すもの(被保護利益と保障人)
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格率は、実際には誰かの利益を保護するために存在する。この利益を被保護利益という。例えば、格率「人を殺してはならない」の被保護利益は殺されようとしている人の生命である。
- 格率に基づく義務は、被保護利益に対する支配(被保護利益の帰趨を左右する能力)を有する人にのみ発生する。この人のことを保障人という。
- 一般に、格率は保障人としての立場と被保護利益を危うくする原因の組み合わせから派生的に生み出されてくる。
完全義務と不完全義務
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完全義務は履行しても称賛されない義務、不完全義務は履行すると称賛される義務である。
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上図の通り、完全義務と不完全義務とは、履行に必要な犠牲が補償される見込みがあったかどうかで区別される。ただし、行為時にその見込みがあったがその後補償されないこととなったときは、倫理上、不完全義務に準じて評価される。
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倫理的評価は義務を誠実に履行したかどうかによってのみ定まり、その結果とは関係がない。完全義務を履行したが不幸な結果を防ぎ得なかった場合、履行者が非難されることはない。不完全義務は、その履行により他人に不幸な結果が生じた場合でも称賛される(ただし、それにより受益した者があるときは、その不幸な犠牲を後述の通り補償しなければならない)。
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実行が不可能な格率は義務にならない。それを適用してもなんら益がないからである。なお、初めから不能(原始的不能)な格率は選択肢に上がってこないから、そもそも検討の俎上にも上がらない。これが問題となるのは後発的不能の場合である。
完全義務と権利
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完全義務の受益者を権利者という。
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権利者は不履行の際に不履行者を非難することができる。
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権利者の権利が実現しないとき、それを見た第三者は怒りを感じる。なお、不完全義務の受益者が受益できなくとも、第三者は怒りを感じない。
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完全義務の不履行者が強制執行を受忍しなければならない義務は完全義務である。一般に、受忍義務の履行それ自体には新たな犠牲を伴わないからである。
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権利者による強制執行がうまくいかないとき、第三者がそれを助けてやらなければならないという格率は義務であるが、完全義務か不完全義務かは原則通りに決まる。
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自らの利益になることが多いというだけでは義務でないことにならない。Ex.自殺しない義務、自己研鑽義務
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しかし権利者が義務者に完全義務の履行を求めなければならないとか履行されないときに非難しなければならないという格率(権利行使の格率)はふつう利益が勝らないので義務とならない。権利行使したくない場合にまで行使しなければならないし、無意味に他人から権利行使を受けることにもなるからである。
不完全義務・犠牲・補償
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不完全義務の義務者がその実行のために犠牲を払うと、それを見た第三者はあわれみを感じる。その結果が不首尾に終わった場合も同様である。
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完全義務でも不完全義務でも、受益者は義務の履行により生じた犠牲を補償する義務がある。そうすれば義務の履行率が上がって有利だからである。しかし犠牲者が格率を共有しないときは別である。この補償義務は受益している限度で(補償されているので)完全義務である。受益限度を超えている部分はふつう不完全義務となるが、義務者からの再補償が期待できるなら完全義務である。
- 補償される犠牲は義務者のそれには限らない。
- 犠牲の補償の見込みは、既に事前にされている場合を含む。Ex.
代金前受済の場合に商品を引き渡す義務
- 一般に、ドラマの主人公は不完全義務を実行する。
格率と人間関係
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格率を共有しない人(こちらが義務だと思う格率を義務と認めない人)に対しては、義務は発生しない。その人はその格率に利を認めないわけであるから、こちらがその義務を履行してやったところでその人が自分のためにその義務を履行してくれる見込みはなく、履行する理由がないからである。
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同じ格率を共有する人とは親しくなりやすい。互いに相手が利をもたらしてくれる人であることになるからである。またそのような人には補償を行う動機もあるため、補償を受けられる見込みが高まって完全義務の領域が広がる。
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利己的計算は、厳密には、自らがその義務の履行につき利害関係を持ちうるすべてのケースについて得失を合計することになる。しかし、多くの場合、今回の履行での自らの得失と、自分と格率を共有しかつ立場が入れ替わる可能性のある周囲の人々の今回の得失のみを合計すれば、利己的計算の得失を簡単におおむね推計することができる。この自分と格率を共有しかつ立場が入れ替わる可能性のある人々のことを仲間という。つまり、見かけ上は自分と仲間の利害だけを功利計算すれば義務かどうか決められるわけである。この限りで義務論は功利主義や共同体主義に近づく。またそのような義務は、前述の理由により、完全義務になりやすい。
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義務者が履行に要する犠牲の量よりも受益者が受益する利益の量の方が大きいことがありうるため、義務者にとって利になる格率だからといって他人にとって不利な格率になるとは限らない。むしろ広く義務として成立するのは前者のような格率である。ここでもまた、この限りで義務論は功利主義に近接する。
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完全義務と不完全義務の別を問わず、義務の履行の動機は、原則として利己的計算の利益の勝る量に応じて強まる。したがって、不完全義務でも履行の動機が弱いとは限らない。完全義務では非難が加えられる不利益が、不完全義務では称賛を受ける利益が加味されるが、これらはそれほど本質的でない。
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義務の履行を妨害してはならないという格率は、履行される義務が完全義務か不完全義務かに関わらず完全義務である。明らかにそれには利が勝るし、禁止型(不作為型)だから犠牲も生じないからである。ただし、元の義務を義務と認めない人を除く。
未完成。
Googleにてキーワード「不完全義務」で妙に上位に表示されていますが、初めにもお断りした通り、ここに書いてあることは私見にすぎませんので、学生のみなさんは倫理学のレポートの参考にしたりしないでください。カントや現代倫理学説の主流の考えと違っています。
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