筆者は古代ギリシャ語のことは何も知りませんので、そのつもりでご利用ください。
再現 (描写) |
μίμησις ミーメーシス mimesis | 語り手によって間接的に伝えられるのではなく、直接出来事が目の前に再生される形で伝えられる場合のその仕方。演劇や映画は基本的にこの形式(セリフで出来事を語らない限り)。なお、藤沢令夫訳の中央公論社「世界の名著8」収録版(1972年発行)では「描写」という訳語が採られており、個人的にはこちらが好み。世間では「模倣」の語も広く採られている。 |
筋 | μῦθος ミュートス mythos | 必然的ないし蓋然的な因果関係で繋がった出来事の組み立て。もっとも、いまでいう「エピソード」(シークエンス)に近い意味で使われている場合もあるように思われる。 |
苦難 | πάθος パトス pathos | 古代ギリシャ語の単語としては「苦痛」「情熱」「事故」などの意味を持った語。ここでは「観客が衝撃を受ける不幸な出来事」という程度の意味の言葉。例えば親を殺害するなどの(14章)、いわゆる悲劇的結果を指す。ただし、そこからくる観客の感情、つまりあわれみとおそれ、罪悪感を指すこともある。 また、現実化した結果だけでなく、まだ実際に生じていない段階で、主人公がそれを避けるために行動する苦痛のことを指すこともある。現代の用語では「サスペンス」あたりが近い。 岩波文庫版を始め多くの翻訳では苦難と訳されている。なお、定義は11章にあり、岩波文庫版ではここが「苦難とは……行為のこと」と訳されているが、厳密に言えば、行為でなくその結果がパトスである。ただ、主人公が親を殺害するといった典型例では、行為も結果も同時に起こるから、このような訳し方になったのであろう。Perseus Digital Libraryの英訳版では「A calamity is a ... occurrence」となっている。 これについてのアナグノーリシスがメタバシスの原因となる。 なお、「ペーソス」も同語源の語。 |
性格 | ἔθος, ἦθος エートス ethos | 人物が何を選ぶかを明らかにするもの(6章・15章)。いわゆるキャラクター。人物の行動の理由となるもののうちの一つ(もう一つは思想)。岩波文庫版ではエートスはカタカナ語としては出てこない。 『弁論術』での定義なども参考にすると、特に倫理的評価をもたらす行動の理由となるものを指すのではないかと思われる。私見では、より具体的には、誰を愛し誰を憎むか、つまり人間関係に由来する選択の傾向のことを指す。悲劇にとってこれが重要なのは、愛すべき人々を救い憎むべき人々をくじくことが倫理的に見て価値ある行為であり、それこそが主人公が行うべき行為だからである。なお、愛すべきでも憎むべきでもない人々のことはどうなろうと倫理的に重要でない。したがって、性格(というより人間関係)の描写が不十分なドラマは盛り上がらないことが多い。アリストテレスがいうところの無性格的な悲劇では、主人公が国家の指導者などの立場にあるために、国民全体が愛すべき人々ということになる結果、この側面が目立たなくなっているものと解される。 悲劇の主人公は良いエートスを持っていて、語り手を愛しているがゆえに、語り手のハマルティアーに巻き込まれ、不幸へのメタバシスを余儀なくされる。 なお、ドラえもんはドラ焼きが好きといった類のことは、現代的な意味での「キャラ」には入ることになっていると思うが、これは一応の行動の動機にはなるものの、少なくとも悲劇にとってあまり重要でなく、性格というより欲情(エピテュミア)である。ただ、喜劇的な話ではむしろこちらの方が重要かも知れない。 |
思想 | διάνοια ディアノイア dianoia |
人物の持つ、言葉をもって何かを証明したり普遍的な見解を表明したりすることを可能にするもの(6章・19章)。属人的な情報処理能力なのか、もう少し客観的な知識のようなものなのか区別が今一つはっきりしない。この訳語は後者寄りだが、高田訳『ニコマコス倫理学』では「知性」とも訳されている。人物の行動の理由となるもののうちの一つ(もう一つは性格)。岩波文庫版ではディアノイアは本文にカタカナ語としては出てこない。 いずれにせよアリストテレスはこの用語について、弁論のように言葉を用いるという主にhowに注目した説明をしたのみなので、その内容、つまり何を述べるのかについては曖昧である。私見では、ディアノイアの内容となるものは、思量、つまり人物が行為の選択肢のそれぞれについて未来の結果をどのように推察しているかということである。つまり実質的にはディアノイアとは予見能力である。ただ、それは外からうかがい知れない内心の問題であるから、観客にわからせるために、ドラマではセリフで説明することになるのが普通だということであろう。ここは理論的に重要なところで、なぜドラマにセリフというものがあるのかという問いに対する部分的な解答たり得る。 予見を前提としてどのような行為選択(プロアイレシス。『ニコマコス倫理学』3巻2章)をなすかにより、性格が決定する。 |
過ち | ἁμαρτία ハマルティアー hamartia | 観客を愛する主人公を不幸にするとは知らずにしたが、取るべきではなかったと見られる行動又は認識。誤解に基づく取り返しのつかない行動。のちにアナグノーリシスによりハマルティアーだったと知るような展開が効果的。 私見によれば、これは主人公ではなく、語り手が犯す。その結果主人公に犠牲を強いることになる。同じ状況に立たされれば観客も同じ誤りを犯すかもしれないと感じることによって不安やあわれみ(=罪悪感)が生じる。 |
認知 (発見) | ἀναγνώρισις アナグノーリシス anagnorisis | そのときまで知らなかった(隠されていた)ことに気付くこと。とくに人間関係に影響を及ぼす(愛するか憎むかするようになる)ようなものについて。正体の露見。ペリペテイアになっている場合が効果的。世間では「発見的再認」の訳語も使われる。 |
逆転 | Περιπέτεια ペリペテイア peripeteia |
予想されたのと逆の結果が生じること。意外な展開。「ペリペティア」と言うこともある。逆転と変転は似ているが意味が異なる。 |
変転 | μετάβασις メタバシス metabasis |
主人公が結果として幸福から不幸に、又は不幸から幸福になりそうになること。ただし、悲劇の場合は前者でなければならない(つまり、語り手のために犠牲になりそうになる)。将来の見通しの変化についていう。 ペリペテイアのない単純な筋にもメタバシスは必ずある。 私見では、実際の悲劇では、ここでいう不幸は、不幸全般でなく、多くの場合、地位や名声を失うこと、つまり社会的評価の低下に限られるようである(それがその他の不幸を伴うことはあるにしても)。 |
浄化 | κάθαρσις カタルシス catharsis |
定義が示されなかったために千年以上にわたり様々な議論が続いている語である。岩波文庫版の注にもあるように、おおむね倫理性を重視するかどうかで説が二分されているが、総合的に解釈する立場もある。 私見では、カタルシスとは、ハマルティアーを原因とするパトスによる罪悪感(あわれみとおそれ)から観客が解放されることを指す。 6章の悲劇の定義でこの単語が出てくるが、ここでカタルシスはパトスからの浄化であるとされている(原文では「παθημάτων」に対する浄化となっていて、これは「πάθημα 」の複数形のようだが、基本的にパトス(πάθος)と同根で同じ意味の言葉である)。岩波旧全集の今道訳は「同情と恐怖を惹き起こすところの経過を介して、この種の一聯の行為における苦難の浄化を果たそうとするところのもの……」という表現で、「苦難」からと訳している。ただ、パトスという言葉は出来事を指す場合とそこから来る感情を指す場合とがあり、岩波文庫版をはじめとして大半の翻訳は後者で訳している。おそらくそれが正当であろう。 |
場面 (挿話) | ἐπεισόδιον エペイソディオン epeisodion | 今ひとつ意味のはっきりしない用語。筋(個々のエピソード)が上演可能な形に完成されたものといったニュアンスの言葉か。その意味では「エピソード」と訳してもよかったかも知れないし、実際そのように訳される場合もあるようだが、岩波文庫版の訳者はエピソード(挿話)という言葉が本筋とは比較的関係の薄い余談といった意味に取られることを怖れてそれを避けている。 なお、12章の「エペイソディオン」は合唱と次の合唱の間の俳優が出てくるひとまとまりの部分という意味で、これに限って言えば今で言うアクト(幕)ないしシーン(場)に近い。 |
普遍的 筋書 | (τά καθόλου ト・カトルー = 普遍的な) λόγος ロゴス logos |
ドラマの「真相」に相当するあらすじ。作者はまずこれを作ってから、ミュートスやエペイソディオンを仕上げる。 古典的ギリシャ悲劇は現在で言うミステリーの色が濃く、提示された謎に惑わされてなんらかの誤解(ハマルティア)を抱くことによって不幸が生じる。その誤解が解ける瞬間がアナグノーリシスで、明らかになるのが真相である。アリストテレスは、まず真相を考えてからそれを誤解する筋を作れと主張しているようである。 |