探偵小説として最も早く密室の「不可能」を主題とした作品はポーの「モルグ街」であるが、このポーの作品や、ずっと後に出たルルウの「黄色の部屋」にテーマとして示唆を与えた実際の事件があった。私は今から四十年前、1913年12月号の「ストランド・マガジン」に、ジョージ・シムズがそれを書いているのを読み、今もノートに貼りつけてある。要約すると、シムズが今から百年ばかり前と書いているのだから、十九世紀の初め頃と思われるが、パリのモンマルトルのあるアパートの最上階、地上六十呎もある一室に住んでいたRose
Delacourtという娘さんが、昼になっても起きてこないので、警官がドアを打破って室に入ると、娘さんはベッドに寝たまま胸を刺されて死んでいた。兇器は刺さったままで、非常な力でやったものと見え、そのきっ先が背中まで突き通っていた。窓は内部からしまりが出来ていたし、入口の唯一のドアは内部から鍵がかけられ、鍵は鍵穴にさしたままで、その上閂までかかっていた。唯一の通路は暖炉の煙突だが、調べて見ると、どんなに痩せた人間でも通りぬけることは不可能であった。盗難品は何もなく怨恨関係も捜査線上に現れてこなかった。この事件は其後犯罪研究家によって色々論議されたが、百年後の今日(1913年)に至るも未解決のまま残っているというのである。しかし、密室の謎を扱った物語は、もっとずっと古代まで遡ることが出来る。紀元前五世紀のヘロドトスの「歴史」の中に紀元前1200年頃のエジプト王ランプシニトスの話があり、密室の謎の原始形が見られる。王の宝庫を建てることを命じられた建築技師が、自分の子供達のために、秘密の抜け穴を作っておいて、その開き方を遺言し、息子達がそこから忍び込んで宝物を盗み出す話である。同じギリシアの紀元前二世紀の作家パウサニアスも、建築家アガメデスとトロポニオスの話で、同じ抜け穴のある密室の謎を書いている。
今一つの古い例は旧約聖書のアポクリファ(外典)にある「ベルの物語」である。バビロン王はベルという偶像神を崇拝していた。羊や穀物やあまたのお供物をそなえて、神殿の扉をとざして錠をかけて誰も出入りできないようにしておいても、一夜のうちにお供物が消えてなくなる。密室の怪である。これはベル神が喰べてしまうのだと信じられていたのを、ダニエルという青年が探偵の役目を勤めてその秘密のカラクリを暴露する。神殿内の祭壇の下に秘密の通路が出来ていて、夜中そこから坊主共が、忍び込み、お供物を持ち去っていたのである。
ヘロドトスにしても聖書外典にしても、秘密の出入口があるので、今の目で見れば、アンフェアな密室の謎だが、そういえばポーの「モルグ街」にしても、窓のさし釘が内部で折れていたというアンフェアなものである。では、そういう欠点のない最初の「密室」小説は何であろうか。ドイルの「まだらの紐」(それの収められた「ホームズの冒険」は1892年出版)とザングウィルの長篇(1891年出版)とが殆ど同じ頃に書かれたが、「まだらの紐」の単純に比べて、密室としてはやはり後者の長篇の方が読みごたえがある。この作品は、西洋でも大して問題にされていないけれど、当時としては最も進んだ密室トリックを用い、また今一つの大トリックに先鞭をつけている意味で、大いに重視しなければならない。
さて、私は各種のトリックを、①犯行時、犯人が室内にいなかったもの②犯行時、犯人が室内にいたもの③犯人と被害者が室内にいなかったものの三つに大別し、それを又小分けして左のように分類して見た。カーの「密室講義」を参照したことは云うまでもないが、分類法は私流になっているし、あの講義にない項目も多少加わっている。
(1) 犯行時、犯人が室内にいなかったもの(39例)
【イ】室内の機械的な装置によるもの。作例、電話機より弾丸発射(コールの短篇)、受話器に強電流(リーヴの長篇)、鍵穴ピストル装置(ヴァン・ダイン長篇)、時計捲き発砲(カーの講義)、短剣落下(フィルポッツ長篇)、振子仕掛け殴打(セイヤーズ短篇、飛鳥高「犯罪の場」)、窒息ベッド(涙香訳で読んだ記憶あり、ボアゴベイか。天蓋ベッドが自働的に折りたたまれて箱のようになり、睡眠中の人を窒息させる)、毒瓦斯発生ベッド(フィルポッツ長篇)、氷の溶解又は水が凍る膨張力を動力としてピストル発射その他の仕掛け(カー講義)、化学薬品による時限放火(甲賀三郎「琥珀のパイプ」)、時計と電流の時限爆弾による放火(ハルの長篇)等々、いずれも機械的に過ぎ、二三の例外を除いて幼稚なトリックたるを免れない(12例)
【ロ】室外よりの遠隔殺人(少し開いた窓――但し地上三階以上の室にて窓より侵入は不可能――又は、小さな隙間のある密室)。作例、向側のビルの窓より、短剣を銃に装填して撃つ(フリーマン短篇)、遠方より窓を通して岩塩で作った弾丸を撃ち込む(ディクスン長篇、岩塩は体内で溶ける)、被害者が窓から首を出したときに、上階から輪になった縄を下げ、つるし上げて絞殺、そのまま死体を地上におろし、縊死を装わしめる(チェスタートン短篇)、室外より撃ったピストルを室内に投げ込み、犯人が室内にいた如く見せかける(ディクスン長篇)【以下は室が一階にある場合】レージイ・トングス( ╳╳╳╳╳ 型の伸び縮みをするおもちゃ)で、少し開いた窓のカーテンの隙間から、室内の卓上の兇器をつまんで、別の兇器ととりかえ、証拠を湮滅する(ディクスン長篇)、「ユダの窓」トリック(ディクスン長篇、種明かしを避く)、絹紐つきの毒矢を隙間から射込んで後に外へたぐりだす(ディクスン長篇)、そのほか、数行では説明できないトリックの作例、長篇では、ハーリヒ、スカーレット、短篇ではノックス、ロバーツ、フットレル、ディクスンなど。(13例)
【ハ】自殺ではなくて被害者自から死に至らしめるトリック。適例はカー「赤後家殺人事件」、ほかにアリンガム長篇、カーの講義にある「予め被害者に心理的恐怖を与えておいて、恐怖の余り半狂乱になり、過失死をとげさせる」方法。(3例)
【ニ】他殺を装う自殺(密室でない「他殺を装う自殺」は後に第六に記す)。この項に該当するのは横溝正史「本陣殺人事件」、ジェブスンとユーステース合作の短篇。これに準ずるもので、密室内で一人芝居をして自から傷つけ、悪霊の為に傷つけられたと偽るのがある(カー短篇)。(3例)
【ホ】自殺を装う他殺(密室内でないものは前記と同じ)。前出のチェスタートン作、上階の窓から首を吊り上げて地上の枝に縊死を装わしめるもの、ちょっと一口で説明できないノックスの短篇。(2例)
【ヘ】人間以外の犯人。〔第一〕の(B)などに前述したものと重複するが「人間外の犯人」と「密室」と結びついている作例は、ポー、ドイル、モリスンの短篇、それにポースト、ルブラン 、江戸川などの「太陽と水壜の殺人」トリック。(6例)
(2) 犯行時、犯人が室内にいたもの(37例)
【イ】ドアのメカニズム。犯人が犯行後室外に出て、ドアの内側から鍵穴にさしこんでおいた鍵を、外から廻すメカニズム、又、外から内側の閂をしめたり、掛け金をおろしたりするメカニズム。作例、ヴァン・ダイン長篇、ゼンキンズ短篇、フロースト短篇、高木彬光「刺青殺人事件」、カー長篇、クリスティー中篇、ウォーレス長篇、楠田匡介短篇、磁石で閂を動かす(ウォレース長篇)、鍵はかけたまま、ドアの蝶番をはずして出入りし、外から蝶番を元通りにしておく(ザングウィル、ロースン等の作中探偵の引例)、死体をドアにたてかけ、その重さによって密室が出来る(クイーン長篇)、犯行後、外から普通に鍵をかけ、その鍵を持って、ドアを破って室内に入る人々の中にまじり、手早く、こわれたドアの鍵穴の内側から鍵をさしこんでおく(ザングウィル、ロースン、カーの引例)、鍵を内側からさしこんで、外に出、ドアをしめ、外から鍵穴に「ウースティティ」という、ピンセットのような道具の先を入れて、鍵の先端をはさみ、回転して鍵をかける。この道具はアメリカの犯人社会では知れ渡っているものの由(犯罪捜査学書所見)。内外二つの鍵トリック。同じ鍵を二つ用意し、一つをドアの内側にさして外に出、ドアを閉めて第二の鍵を外から鍵穴に入れると、内側の第一の鍵は室内に落ちる。そして、外からの鍵でしまりをし、それを抜いて持ち去る(ザングウィル作中引例)。(17例)
【ロ】実際より後に犯行があったと見せかける。後に記す「音響による時間アリバイ」の項と重複するが、犯行後密室内に、被害者の声を吹き込んだレコードをかけておく方法(クリスティ長篇、ヴァン・ダイン長篇)、犯行後に密室内に銃声を発せしめアリバイを作る方法(リース、カー、ディクスン、スカーレットの各長篇)、紙袋に息を入れて強く叩いて破れる音で偽銃声を作る(クリスティー中篇)、室内の大時計が倒れるような仕掛けをして、その倒れた音の時犯行があったと思わせる(マイヤーズ長篇)、腹話術の利用(カーの長篇の引例)、第三者の視覚に訴えてすでに死んだ被害者がまだ生きていたように見せかける。腰かけて死んでいる死体の向きをかえて、窓のカーテンに写る影を見せる(スカーレット長篇)、黄色の大きな紙を糸でつるし、ガウンを着た人間の後姿と見せかけ(ガラスごしに遠方から)別の糸でそれをストーヴの中に引き込み、焼いてしまう(H・H・ホームズ長篇)、この二例これだけの説明では分らないが、他のあらゆる状況は、このトリックに都合がよく出来ているものと想像されたし。今一つは犯行後、犯人又は共犯者が被害者に化けてアリバイを作る。これも「一人二役」の(1)の(乙のイ)と重複するものが多いが密室と組合されたこのトリックはベントリー、カー、ディクスン二例(いずれも長篇)などである。(15例)
【ハ】実際より前に犯行があったと見せかける。密室に於ける犯罪発見者が犯人。予め被害者に多量の睡眠薬をあたえておいて、ドアを叩いても返事がないので、おしやぶって室に入り、その刹那に早業殺人を行い、ドアを破る前に殺されていたように見せかける(ザングウィル長篇、チェスタートン短篇)。密室でない場合の「発見者が犯人」の作例は〔第一〕の(B)の(3)に既述した。(2例)
【追記】この項目に属する非常に大きなトリックを書きもらしていた。それは、密室の屋根の一部をジャッキで持上げて、すきまを作り、そこから犯人が出入するという奇抜な考えで、昨年クイーン雑誌のコンテストに入選したロバート・アーサーという人の短篇「五十一番目の密室」がこれである(京都の同人雑誌「密室」の昭和二十八年六月の号に、山下暁三君が訳している)。後に鷲尾三郎君はこれに一歩を進めて、屋根の一部ではなくて、小屋の屋根全体を万力で引上げて出入りし、又元のようにしておくというトリックを考え、短篇を書いた。更らに今一段奇抜なのは、双葉十三君に聞いたのだが、たしかハーバート・ブリーンの作だったかと思う。先ず野外で人を殺しておいて、その死体の上に大急ぎで小屋を建築して、密室を作るという着想である。簡単な小屋なら一夜で建てられるのだから、これは不可能ではない。殺人の後で家を建てるというのは、チェスタートンでも思いつきそうな手品趣味で、いかにも面白いと思った。
【ニ】犯罪発見者達がドアを押し開いて闖入した際、犯人はドアのうしろに身を隠し、人々が被害者の方に駆け寄る隙に逃げ出すという簡単な方法がある。これはトリックとしてはバカバカしいような方法だが、複雑に考える癖になっている探偵読者の意表を突き、却って意外感を与えるので、トリック専門の大家が、これを使って長篇を書いている例がある(ロースンの長篇)。(1例)
【ホ】列車の密室。コンパートメント内、電気機関車内の殺人など。殊に列車進行中には、外部と隔離されるため、恰好な密室となる(クロフツ中篇。芝山倉平「電気機関車殺人事件」)。船室も同様の条件を備えている。クリスティーの短篇に作例がある。尚、船全体を一つの密室と考えれば幾つも例があるが、作者が純粋の密室を意図していないものが多い。(2例)
(3) 犯行時、被害者が室内にいなかったもの(4例) 密室事件で被害者の方が室内にいなかったというと、不思議に思われるが、他の場所で殺した死体を、その部屋に持ち込み密室を構成するか、被害者が重傷を受けてから、室に入り、何かの事情で内部から鍵をかけて死ぬ場合などである。前者の死体を運び入れてから密室を作るという例は見当たらない。死体移動だけで充分アリバイを構成するからであろう。被害者自から密室を作るのは、犯人をかばうためか、敵の追撃を恐れるためか、いずれかである。前者の例はルブランの短篇にあり、後者の例は島久平の「硝子の家」である。ほかに、被害者が致命傷を受けたのち、その室に入り、そこへ別の犯人が来て、被害者がすでに絶命していると知らず、ピストルで撃ってから、密室を拵える筋(ヴァン・ダイン長篇)、更らに、外で殺した死体を高い窓から密室の中に擲り込むという思いきった筋もある(ディクスン長篇)。
(4) 密室脱出トリック(3例) ついでにここにつけ加えておく。脱獄のトリックである。私の知っている例は、ルブランの「ルパンの脱獄」、フットレルの「十三号独房の問題」、ロースンの「首のない女」の三例で、いずれもよく出来ている。尚脱獄トリックについては、アメリカの大奇術師、故フーディニの伝記に色色面白い実例が書いてある。彼は世界を巡歴して各国の牢獄を脱出して見せ、又金庫の中へとじこめてもらい、抜け出して見せる奇術もやった。
あとじさりに歩いて、来たのを帰ったと、また、帰ったのを来たと見せかける(ニコラス・ブレイク長篇、私の「何者」)、逆立して手で歩く(グローラー短篇、ディクスン短篇)、馬に牛の足型をはめて歩かせる(ドイル短篇)、竹馬に乗って足跡をごまかす(ディクスン長篇の中の引例。私の「黒手組」)、全く同じ靴を二足作り、偽の足跡を残して捜査を混乱させる(クロフツ長篇)、靴の底に蹄鉄をうち、馬の足跡と思わせる(ジョージ・シムズ随筆に引例)、全く足跡が残らないようにする種種のトリックでは、ケーブルカー式に空中を移動する(高木彬光「白雪姫」)、ブーメラングの利用(チェスタートン短篇中の引例)、軽気球の錨が地上の人の頭を打ち殴打殺人と誤られる(セクストン・ブレイク物語の一篇)、その他二三行では説明のできない方法、ディクスン長篇、チェスタートン短篇二。足跡ではないが、タイヤの跡のトリック、ドイル、チェスタートン各短篇。
足跡トリックの歴史も古い。正確に云えば「足跡発見」のトリックに属するものだが、前に引用した旧約外典「ベルの物語」には、犯人が現れる室に予め粉を撒いておいて、その上に残った足跡を証拠にするトリックが書かれている。これはドイルの「金縁の鼻眼鏡」でホームズが床に煙草の灰を一面に落しておいて、その室に隠れていた人物を発見するトリックと同工である。
指紋、掌紋、脣紋など、手掛りとしては屢々使われるが、トリックとして使われた例は、私の採集した中には殆どなかった。ドイルはまだ指紋捜査が一般化していない頃、早くも指紋偽造トリックを使っているし(ノーウッドの建築師)、フリーマンもよく指紋を使ったが(長篇「赤い拇指紋」が代表的)、指紋の偽造などは実話としては面白くても、トリックとしては大して面白くないのである。「裏指紋」のトリック(インクを拭いとった後の指の隆腺と隆腺との間の凹所に残っていたインクが捺され、写真で言えばネガチヴの指紋が現場にあった場合、鑑別を誤る話)は、私も「双生児」に使ったが、カーもある長篇に使っている。
指紋小説の元祖はマーク・トウェーンであり、それからドイルの指紋小説までの間にも幾つかの作例が発見されているが、それらはいずれも犯人推定の証拠として指紋を取扱ったもので、指紋トリックの作品ではないし、そういう指紋小説の歴史については別項「明治の指紋小説」に詳説したので、ここには繰返さない。