〔第六〕その他の各種トリック(93例)

〔第五〕までのいずれにも属しないトリックの目ぼしいものをここに集めた。これらの多くは前項の「人や物を隠す」のに対して「犯行を隠す」トリックに属するとも云えるが、必ずしもそればかりではない。

(1) 鏡トリック(10例) 鏡に写った姓、名の英語頭字を、逆に読んだためにおこる人違い(クリスティー長)。鏡に写った時計の文字盤を逆読み(再出、メースン)。鏡利用の奇術を探偵小説に利用したもの種々(ディクスン短、ロースン長、フリーマン短、角田「奇蹟のボレロ」)。大鏡を使って一人を二人と見せて密室を作る(カー長)。ドアの裏の鏡に写る自分の姿を見て廊下に人が立っていると誤まる(チェスタートン短)。大鏡に写る自分を敵と誤まり発砲(チェスタートン短)。其他スカーレット長篇など。

(2) 錯視(9例) 【色盲トリック】(ディクスン短、ポースト短、クイーン長、横溝「深紅の謎」、甲賀「緑色の犯罪」、木々「赤と緑」)。【近眼トリック】(ポー、ドイル各短)。ほかに江戸川「D坂」の格子トリックなど。

(3) 距離の錯覚(1例) 目隠しをして馬車又は自動車にのせ、長い時間どことも知れず運び、出発点から非常に遠い場所のように思わせて実はグルグル同じ所を廻って、出発点に近い場所でおろす。ドイル「技師の拇指」のほかにも二三の例があったと思うが、今度の採集例の中には見つからなかった。

(4) 追うもの追われるもの(1例) 一例しかないが、手品趣味として面白いのでつけ加えておく。落語に、足の早い男が泥棒を追っかけて、思わず追い抜いてしまい、行人に「泥棒は?」と問われて「後から走って来ます」と答えるのがある。チェスタートンは、この心理的錯覚を使って、どちらが被害者か犯人か分らなくなるという短篇「赤勝て青勝て」を書いた。これに関聯して、「喰うものと喰われるもの」の錯覚を使ったのが同じく落語の「蕎麦羽織」。大蛇が人間を呑んだあとで、ある草をなめると腹が小さくなったのをみて蕎麦の喰べ比べの時、その草を用意して、なめると、逆に人間のからだが溶けて蕎麦だけが残り、蕎麦が羽織を着て坐っていたという話。小酒井さんが、生前、これは探偵小説の種になるとノートしておられたのを見たことがある。

(5) 早業殺人(6例) 目にもとまらぬ早業で殺害するために、人に気づかれぬというトリック。別項「英米短編吟味」のチェスタートンの項に詳説した「ヴォードレイの消失」が適例である。同工のトリックを使っているもの、マスターマン、クイーン各長篇、チェスタートンの他の短篇。ほかに密室と結びついたものでは、ザングウィルの長篇、チェスタートンの又別の短篇などがある。

(6) 群衆の中の殺人(3例) わざと衆目の前で殺人をやった方が却って安全だという逆手。「盗まれた手紙」の「目の前に放り出しておくのが最もうまい隠し方だ」というのと同じ系統の着想である。ライス長、チェスタートン短二。

(7) 「赤髪」トリック(6例) ドイルの「赤髪聯盟」の類型に、仮りにこの名称をつけた。赤毛の人を募集するという奇抜な罪のないカムフラージで、別の大犯罪を目論むという着想。これの類型、ドイルの短篇に三例あり、ロバート・パーの短、シメノンの短、ブシュの長など。

(8) 「二つの部屋」トリック(5例) 「新青年」大正十一年八月増刊に訳された「二つの部屋」という短篇が、深く印象されている。この原作者は「新青年」ではロバート・ウィントンとなっており、後に春陽堂の「探偵小説全集」に入ったときにはF・G・ハーストとなっている。どちらが本当かまだ確かめていないが、いずれも大して著名の作家ではない。ただその着想が面白かったのである。何から何まで全く同じ部屋を、ビルの一階と上の方の階とに作り、被害者を一階で身動き出来ないように縛り、そばに時限爆弾を仕かけて、何時何分にはお前は粉みじんになると云い渡し、それから眠り薬をのませて、被害者を上の階の部屋に運んでおく。被害者は、眠りから覚めると爆発寸前の時間なので、一階だと思い、ドアをあけて飛び出す。ところが、上の階のその部屋は、ドアの外にエレベーターの穴があるので、そこへ墜落して死ぬという、手を下さずして人を殺すトリックなのである。ディクスンの「存在しない部屋の犯罪」には、殺すためではないが、同じ着想が用いられ、クイーンの「神の燈火」(戦争直後、私が抄訳した「黒い家」)は部屋ではなくて、全く同じ建物が二つあるという類型を用い、通俗ものでは「ファントマ物語」に、二つの全く同じ部屋を上下につないで、大仕掛けのエレベーターを作り、上の部屋で殺人をやり、エレベーターを上昇させると、全く同じ下の部屋が現場の如く見えるので、殺人の痕跡がなくなってしまうという着想があり、私は「黄金仮面」の中に、これを借用している。

(9) プロバビリティーの犯罪(6例) 谷崎潤一郎「途上」の類型。古くスティヴンソンのWas It Murder?という掌編が強いて云えばこの系列に属するが、探偵小説としては、フィルポッツ「悪人の肖像」、クリスティー「ポアロ一依頼者を失う」の二長篇と、プリンス兄弟の短篇「指男」など、いずれも「途上」より後の作品。私の「赤い部屋」もこれに属する。

(10) 職業利用の犯罪(1例) 医師が悪人なれば、職業を利用して、誰にも悟られることなく殺すことも不可能ではないように、職業利用の犯罪というものがあり得るわけだが、その最も面白い作例はグリップル(英)の短篇「ジェコブ・ヘイライン事件」で、歯科医が、治療中の患者の口中にピストルを打ち込んで殺人するというトリックを用いている。死体を別の所へ移しておけば、口中にピストルをうち込むなんて、自殺以外には考えられないので、嫌疑を免れるわけである。

(11) 正当防衛トリック(1例) やむを得ない正当防衛の如く見せかけて、実は故意の殺人を犯す欺瞞、私の「断崖」がこの着想を狙ったものだが、うまく書けなかった。他の作例を知らない。

(12) 一事不再理トリック(5例) 刑事訴訟で、一度審判せられ、確定裁判を経た事案については、重ねて審判せられることがないという原則がある(日本国憲法第三十九条。英、米も同様の法律あり)。これを利用するトリック。殺人事件で、真犯人がその事件につき別の軽い罪を犯している証拠を作っておき、早く自白して判決され、殺人罪の方を免れる。クリスティー「スタイルズ荘の怪事件」のほかに、ポースト短「鉄の指を持つ男」、バンクロフト長「ウェア事件」など。ヴァン・ダインの「スカラブ殺人事件」にも一部にそれが使われていたと記憶する。また、十数年前英米で大流行を見た、裁判記録、手紙、電報、新聞紙などを原形の通りに印刷し、あらゆる証拠品、毛髪、破れた写真、汽車の切符などを、やはり現物のまま添附した、実物探偵小説の代表作家デニス・ウイットリイの「誰がロバート・プレンティスを殺したか」という本の中心トリックが、やはりこの「一事不再理」を使ったものであった。

(13) 犯人自身が遠方より殺人行為を目撃するという不可能を作り出して見せるトリック(2例) 遠方から目撃していたのだから、絶対のアリバイが成立するわけ。私は戦争中雑誌「日の出」に連載したスパイ長篇でこのトリックを考案した(アメリカを敵国として描いているので、遠慮して本にはしていない)。戦後になってカーの「皇帝の嗅煙草入」を読むと、同じトリックを別のやり方で書いていることがわかり、同趣向に共感を覚えたものである。

(14) 童謡殺人(6例) これはトリックというよりはプロットに属するのだが、童謡の文句の通り殺人が行われていく一種異様の不気味さを狙ったもの。ヘキスト「誰が駒鳥を殺したか」、ヴァン・ダイン「僧正殺人」、クリスティー「誰もいなくなった」、クイーン「ダブル・ダブル」、フェラーズ女史「私と蠅が云いました」などの長篇、クイーンの短篇「気狂いお茶会」。

(15) 筋書き殺人(6例) 童謡殺人と同じような不気味さを狙う。故人の言葉や古文書などの筋書き通りに恐ろしい事が起るという着想は日本の古い物語にもあり、ギリシアのオラクルだとか、中国の亀卜など、予言や占いの恐ろしさと相通ずるもので、聖書などにも屢々取入れられている着想だが、同じ恐ろしさを探偵小説に応用したもの。筋書殺人の例は、谷崎潤一郎「呪はれた戯曲」、クリスティー「ABC殺人事件」、クイーン「Yの悲劇」、ニコラス・ブレイク「野獣死すべし」、横溝正史「獄門島」の俳諧殺人、「八つ墓村」など。

(16) 死者からの手紙(3例) 死者が生前でなくて死後に書いたとしか思われないような手紙が現れる。その心霊現象めいた不可思議が、結局トリックであったというおちになる話。ビーストン「死者の手紙」、ルブラン「虎の牙」、城昌幸「死人の手紙」など。

(17) 迷路(4例) 「謎」を形であらわしたものが迷路なのだから、迷路は探偵小説の象徴であり、切っても切れない縁があるが、迷路そのものをトリックとして、使用した例は大して多くはない。コニントンの長篇「迷路殺人事件」、ウィップルの長篇「鍾乳洞殺人事件」、カーの長篇「曲った蝶番」、ほかにクイーンの短篇が一つある。

(18) 催眠術(5例) 催眠術を使えば、どんなことでもやれるので、探偵小説の合理主義に添わないという意味から、ヴァン・ダインの二十則などでは、これを反則としている。催眠術がまだ珍らしい時分の大昔の探偵小説には、屢々使われているが、名作として残っているものは殆どない。ただM・P・シールの中篇「プリンス・ザレスキー」だけは、今でも探偵小説史に明記されている。この人は他にも催眠術の作品が多くあるようだが、私の読んだものでは、右のほかに長篇「クラシンスキー博士の秘密」がある。近年のものではディクスンの「赤後家殺人事件」に催眠術の味が濃厚に取入れられ、短篇ではオースチンとフランコウの作品が私のメモにある。
【追記】ハーバート・ブリーンの近作長篇「夜が暗いほど」は催眠術を中心興味としている。

(19) 夢遊病(4例) 好例はコリンズの「月長石」。しかし、これも単純に正面から扱ったのでは、論理主義の邪魔になる。私の読んだものでは、ヘンリー・ジェームス・ファーマンの長篇「罪」(1924)、サックス・ローマーの短篇「楽屋の二悲劇」など。私自身の「夢遊病者の死」もこの項に属する。

(20) 記憶喪失症(6例) これもトリックではなくプロットの部類。戦後欧米ではこのアムネジアを取入れた心理的スリラーが非常に流行したが、純探偵小説でこれを使ったものも古くからある。コリンズの二つの短篇、アーノルド・ポートの短篇など。昔涙香の訳で、汽車の衝突のために記憶を喪失した人物を使った探偵小説を読んだことがある。また、菊池幽芳が訳した「秘中の秘」の怪老人も今で云えばアムネジアに罹っていたわけである。一昨年だったか「トレント」の作者ベントリーが久方ぶりで、心理スリラーの長篇「象の仕業」を発表したが、これがやはりアムネジアを主題としたものであった。

(21) 奇抜な盗品(2例) この項目はここに入れてはおかしいのだが、他に適当な場所もないので、ついでに記しておく。列車進行中に貨物列車の中から目的の一輛だけを盗み取るという奇抜なトリックを使った貨車消失事件(ホワイトチャーチの短篇「ギルバート・マーレル卿の名画」)、更らに一列車全部を消失させるという思い切ったトリック(ドイルの短篇「消え失せた急行列車」)。

(22) 交換殺人(1例) Aは遺産が早くほしいために父が死んでくれればよいと思っている。Bは悪妻に悩まされ他の恋人が出来たので、妻をなくしたいと思っている。このABは友人でもない全くの他人なのだが、ある機会にお互の意識下の願望を知り合い、交換殺人を申合せる。即ちAはBの妻を殺し、BはAの父を殺すのである。そうすれば、AとBの妻、BとAの父とは顔を見知らぬ間柄なので、動機が推定できず、お互に嫌疑をかけられる心配がないのである。アメリカの作家パトリシア・ハイスミスの長篇Strangers on a Train(1950)はこの着想を中心として書かれている。チャンドラーがこれを脚色した映画「見知らぬ乗客」はついこの間(昭和二十八年)公開されたのだから、読者の記憶に新たであろう。

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