私は学生時代に暗号記法の分類というものを作ったことがあり、それを大正十四年の「探偵趣味」にのせ、昭和六年の随筆集「悪人志願」にも入れておいたが、それを少し補訂して左に掲げる。
戦争のおかげで、暗号記法が非常に進歩し、自動計算機械で複雑な組合せを作るようになったが、こうして機械化してしまうと、以前、暗号というものに面白みを与えていた機智の要素が全くなくなって来るので、小説の材料には適しなくなった。現代から暗号小説というものが殆ど影を消した所以である。
私の採集し得た暗号小説は僅かに三十七例にすぎないが、それらを私の分類の項目にあてはめて見ると、(C)の「寓意法」と(F)の「媒介法」に属するものが最も多い。これによっても、小説としては機智のある暗号が喜ばれることが分る。左の項目中作例数を全く記さぬものは、その項の小説例がないのである。
(A) 割符法 ブルタークの英雄伝によると、古代ギリシアのスパルタの将軍は、Scytaleと呼ばれた同じ太さの棒を双方で持っていて、その棒に皮を巻いて合わせ目に通信文を書いて送り、受取った方では、同じ棒に巻かなければ、これを判読することが出来ないという方法を用いていた。割符の原理である。後に記す「窓板法」なども、原理としては、やはり、これと同じものだ。
(B) 表形法(4例)
物の形、或いは道順などを、子供のいたずら書きのような簡略な図形で現す方法。ルブランの「奇巌城」、甲賀三郎の「琥珀のパイプ」などに、これが用いられている。乞食や泥棒が仲間に指示するために、道端の石や塀に白墨その他で奇妙な彼らだけにわかる符牒をしるしておくのも、この暗号記法の原始形である。これに類するものでは、犯人仲間ばかりでなく花柳界などでも用いる【指暗号】があり、軍隊の【手旗信号】なども表形法に属する。
表形法はまた一種の【略記法】でもある。昔の学問僧が漢字を省略して特別の字を使っているのも、一種の略記暗号と云える。これに類するもので【絵探し暗号】とでも名づくべきものがある。探偵小説ではM・P・シールの「S・S」という暗号小説、スエーデンの探偵作家ヘルラーの長篇「皇帝の古着」などにこれが使われている。実際のスパイが用いる方法では、蝶の写生図と見せて、実はその翅の模様が地図になっているなどの類である。
(C) 寓意法(11例) 日本古代の恋愛和歌、児島高徳の桜樹の詩、西洋の謎詩など、古くから寓意の暗号が行われているが、この暗号は機械的な所がなく、主として機智によって記され、また解かれるものだから、探偵小説には最も作例が多い。ポーの「黄金虫」の暗号の後半がこれであり、涙香の訳した「幽霊塔」の暗号呪文など最も適例である。このほか私の集めた実例を記すと、ドイル「マスグレイヴ家の儀式」、ポースト「大暗号」(邦訳「ジョバネーの探検日記」)、ベントリー「救いの神」、M・R・ジェームス「トーマス寺院の宝物」、オ・ヘンリー「キャロウエイ君の暗号」、セイヤーズ「学問的冒険・龍の頭」、アリンガム「白象事件」、ベイリー「スミレ花園」、ベントリー「無邪気な船長」。
(D) 置換法(3例) 字、語、又は句を異常の並べかたにして人目をくらます方法で、左の種類がある。
(1) 普通置換法(1例) 【イ】逆進法。面をラツ、種をネタ、鞄をバンカというように逆にするもの。古い幼稚な暗号小説には、通信文を仮名で逆に書いたものがある。今実例を思い出せない。アルファベットのAの代りにBを、「いろは」の「い」の代りに「ろ」という風に、一つ次の字と置き換える方法も古く使われたが、これは後に記す代用法に属する。【ロ】横断法。同じ感覚で数行並べた文句を、英文なら縦に、日本文なら横に読むと意味の通じるもの。西洋にもこれを使った暗号小説があったと思うが、私の「黒手組」の暗号も一部分これに属する。【ハ】斜断法。同じく並んだ文字を斜めに読ませる手もあり得る。
(2) 混合置換法 右のように順序よくしないで、字、語、句を双方申合せた法則に従って、一見めちゃめちゃに置き換える。これは法則の立て方によって、いくらでも複雑にすることが出来る。語による混合置換法はアージイル伯がジェームズ二世の謀反したときに用いたものとして有名である。
(3) 挿入法(2例) 所要の字、語、句の間へ、適宜無用の字、語、句を挿入して文意を不明ならしめる方法、ドイルの「グロリア・スコット号」の暗号は【語挿入法】に当る。The supply of game for London is going steadily upの中からThe game is upを拾わせる。他の語は無用のものである。この場合挿入語を含めた全文にも別の意味があるような文章にするのが理想的である。句挿入法の場合も同様。ドイルの「ギリシア語通訳」は、会話の中へ所要のギリシア語をはさむ方法だから【句挿入法】に当るが、全体の意味が一貫するようなものではなかった。
(4) 窓板法
この方法の単純なものは、やはり字挿入法と云えるので、全体としては少し違うけれども、ここに記しておく。方形の厚紙に縦横の線を引き、原稿紙のような桝目を作る。そして、そのあちこちの一桝ずつを、でたらめにくり抜いて、幾つも窓を作る。これを用紙の上において、その窓の中に順次一字ずつ、目的の言葉を書き入れ、次の窓板の厚紙をとりのけて字と字の間の空白に、でたらめのアルファベットを書き入れ、空白をなくしてしまう。こうして送れば、同じ窓板を持っている相手は、それをあてて読めばすぐ分るが、窓板のない人には全く判断出来ない。これが単純な窓板法である。
これを複雑にするには、上記のように窓の中へ文字を書いたあとで、窓板を四十五度右なり左なりに廻転する(その時前に書き込んだ字が、今度の窓の中へ入って来ないように、適当な窓の開け方をしておく必要がある)。そして、前のつづきの言葉を、窓に書き入れる。こうして四十五度ずつ廻転して行けば、四回違った箇所に、窓々が開くことになり、四倍の文字が書き入れられる。そして最後に、空白をでたらめの字で埋めておく。受取った方は、やはり四十五度ずつ窓板を回転して、順次これを読めばよいのである。ほかに円形の窓板法もある。円盤の場合は角板のように四十五度回転がハッキリ出来ないけれども、やはり回転の工夫はつくのである。
(E) 代用法(10例) 暗号書には「暗号記法を二種に大別し、トランスポジションとサブスティテューションに分つ」と書いてあるが、トランスポジションは私の所謂「置換法」であり、サブスティテューションは「代用法」である。この二つが暗号記法の大宗であることはいうまでもなく、殊に「代用法」は重要で、近代機械暗号は全てこれに属するのである。代用法とは字、語、句に他の字、語、句、数字又は図形を代用して意味を不明ならしめるもので、多くの場合通信者双方だけが知っている「鍵語」(キイ・ワード)を用いて解くのである。
(1) 単純代用法(7例)
【イ】図形代用法(2例)【点代用法】電信記号、点字等もこの原理によるものである。スパイがモールス信号を暗号通信に使った例も屢々あった。【線代用法】古くチャールス一世が発明した、有名な線ばかりで出来た暗号があるが、【ジグザグ法】と呼ばれている暗号もこれに属する。アルファベットを一行に書いておいて、その下に紙を当てて、所要の文字の下から下へ稲妻型に線を引き、同じ間隔のアルファベット紙片を持っている相手は、それをあてて見れば、すぐ分るという方法である。【図形代用法】ポーの「黄金虫」、ドイルの「舞踏人形」の暗号が適例である。【フリーメーソン暗号】と呼ばれている⊐⊔⋁⊓のような書き方もこれに属する。それぞれアルファベットの一字を代理するのである。
【ロ】数字代用法(2例) アルファベットの一字を一つの数字、又は幾桁かの数字(Aを1111,Bを1112,Cを1121の如し)で代理させる。アントニー・ウインの長篇「二重の十三」はこの暗号を使っている。また逆に文章で数字を現す暗号もある。ある文章の中から古い時計の文字盤に使われたようなローマ数字IVXLCMなどを拾い出して並べると金庫の合鍵の数字になるというのがフリーマンの短篇暗号錠」である。
【ハ】文字代用法(3例) 原文の一字に対して一字又は数文字を以て代理させる。例えばF・A・M・ウェブスターの短篇「奇妙な暗号の秘密」はアルファベットの一字を他の一字で代表させる暗号を使い、リリアン・デ・ラ・トールの短篇「盗まれたクリスマス・ボックス」はFをaababで現わすというような複数文字代用法を使い、またアルフレッド・ノイズの「ヒアシンス伯父」はBon voyageでU-boatsを代理させるというような【語代用法】を使っている。尚、日本でも冗談に漢字の読み方をいろいろに使って別の意味を現すことが行われているが、英語にも同様のやり方がある。面白いので附記しておく。ghotiと書けばfish(魚)を意味すことになる。そのわけはghはenoughのフであり、Oはwomenのイであり、tiはignitionのシュである。即ちフィッシュとなるのである。
(2) 複雑代用法(3例)
【イ】平方式暗号(1例) 先ずアルファベットを、第一行はAから、第二行はBから、第三行はCからという風に、一字ずつ喰い違わせて数十行書き並べ、アルファベットの平方を作る。この文字の平方の第一行の上部に普通のアルファベットを横に書き、平方の左側に、アルファベットを縦に書く。この縦横の二つのアルファベットが暗号作製のもとになるのである(この平方図式を、暗号史ではその発明者フランスのBlaise de Vigenéreの名を冠して「ヴィジュネル表」と呼んでいる)。さて、暗号記法には三つの要素がある。第一は通信すべき原文(これをclearと名づける)、第二は鍵語(key)、第三は出来上がった暗号文(cipher)である。前に記したアルファベット平方図のそばに、このクリーアと、キイとを書いた紙片を置く。例えばクリーアはATTACKATONCE(直ちに攻撃せよの意)、キイはCRYPTOGRAPHY(暗号の意)とする。さて、送るべき言葉の第一字即ちAを、平方の情報の横に書いたアルファベットの中から見出す。それは勿論第一字目のAである。次にキイの第一字Cを、縦のアルファベットの中から見出す。それは第三行目である。この上方のAから垂直線を下し、Cの行と交わるところにある字が暗号文の字となる。この場合それは第三行のはじめの字だから、やはりCである。次にはクリーアの第二字Tを上辺のアルファベットの中から見出し、次にキイの第二字Rを縦のアルファベットの中から見出し、双方からの線の交わるところを見ると、Kがある。だから暗号文の第二字はKとなる。こうして作った暗号文は同じAを代理するものが、いつも最初のCとは限らない。Pの場合もありGの場合もあるという風に、解読が非常に困難になる。そこで、英文におけるアルファベットの頻度表により、暗号文中の頻度の最も高いものをEとするという解き方が利用できなくなる。アルファベット平方の代りに、数字平方を作れば、暗号文は数字ばかりにもなる。他人にはそのように解読困難だが、鍵語さえ知っていれば、右の方法を逆にたどればよいのだから、解読は極めて容易である。近代の機械化暗号法も、つまりはこの平方式の極度に複雑化されたものにすぎないのだが、それは平方というよりは、既に立方化されているのかも知れない。昔の暗号を直線的暗号とすれば、ここに記するのは平方的暗号であり、自動計算機によるものは立体的暗号にまで達しているとも云えるのであろう。平方式暗号のごく単純なものは、昔セクストン・ブレイクの探偵譚で読んだ。この原型は随分古いのである。
【ロ】計算尺暗号法(1例)
原理は平方式と同じだか、それを技師などの用いるスライド・ルール式にやる様にしたのが、この計算尺暗号法である。先ず物指しのような長い二本の厚紙(セルロイドその他何でも)の棒を作り、一本にはアルファベットをAからZまで書き、他の一本にはAからZまでを二度くり返した倍の長さのものを作る。前者を「インデックス」と呼び、後者を「スライド」と呼ぶ。この二つを並べ、前者を固定し、後者が左右にスライドするようにする。この場合鍵語はやはり定めてあるわけで、その鍵語の第一字を「スライド」の中から探し、その字が「インデックス」の方の最初の字即ちAの下に来るようにずらせる。
次に通信文の最初の字を「インデックス」の中から探し、その字の下にある「スライド」の方の字を暗号文の字とするのである。これを順次くりかえして全文を暗号化する。受ける方も同じ計算尺を用意していて、右の逆を行えば解くことが出来るわけである。探偵小説ではヘレン・マクロイ女史の長篇「パニック」にこれが使われ、この方法が詳細に説明されている。
【ハ】円盤暗号法(1例) 計算機に円盤のものがあるように、暗号尺にもやはり円盤のものがある。原理は同じことで、二重円盤の一方を「インデックス」、一方を「スライド」として、左右にずらせる代わりに、丸くまわして答えを得ればよいのである。エルザ・バーカーの短篇「ミカエルの鍵」にこの円盤暗号が使われている。
【ニ】自動計算機械による暗号 軍事、外交用としては、現在ではもっぱらこれが使われている。原理は平方方式から立体式にまで移っていると云えるかも知れない。乱数表などという数学的な表まで使われている。しかし、こういうものは、もはや、機智と推理を狙う暗号小説の材料にはなり得ないのである。
(F) 媒介法(9例) いろいろな媒介手段を使って暗号を伝達する。探偵小説の暗号にはこの媒介法の作例が非常に多い。機智の要素に富むからである。【タイプライター】には記号と数字とが同一キイに記されていたのもあるらしい。だから記号で数字や文字を現すことが出来る。その媒介がタイプライターとわかればすぐ解けるのである。昔読んだマーチモントの「ホードレイ氏の秘密」という長篇はこれを中心興味に使っていた。【書籍】のページと行と何字目との三つの数字を並べて送ると、相手も同じ本を持っていてこれを解くというのは屢々小説に使われている。聖書とか有名な小説本などが利用されるが、ドイルの「恐怖の谷」は年鑑を使い、解き方は少し違うけれどもクロフツの「フレンチ警部最大事件」は株式売買票を使い、クリスティーの短篇「四人の嫌疑者」は花屋のカタログを使い、バウチャーの短篇「Q L 696 C9」は図書館の図書分類表を使い、また、ドイルの短篇「赤い輪」は三行広告を使っている。【火花信号】で意味を伝えるものは同じくドイルの「赤い輪」にもあり、暗中に煙草の火でモールス信号をするのはパーシヴァル・ワイルドの「日の柱」である。またルブランには【鏡】を日光に反射させて窓と窓とで信号する短篇があった。私の「二銭銅貨」も展示を媒介としている意味でここに入るであろう。最も奇抜な例は古代ギリシアのヘロドトスの歴史の中にある挿話で【人間を媒介】としたものである。戦争中、密使を遣わすのに、文書ではあぶないので、奴隷の眼病を治してやると称して頭を剃り、頭の皮膚に通信文を刺青し、髪の伸びるのを待って先方の陣に送る。先方ではその頭を剃って通信を読んだというのである。
その他、あぶり出し、隠顕インクの使用による秘密通信、音楽による代用法、楽譜の暗号、縄や紐の結び目による代用暗号法、暗号としての神代文字など、いろいろあるが、大体の種目は以上につきると思う。
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