〔第九〕トリッキイな犯罪発覚の手掛り(45例)

 私のメモは犯人の側のトリックを書きとめることを主眼としたのだが、犯人発見の方の機智も、気づいた場合は記しておいたので、整理をして見ると、そういうものの小さな一群が出来た。謂わば副産物のようなもので、一項を設けるほどの内容はないのだが、ともかくここに書き添えておく。
 本当をいうと、全作品のメモに、一つ一つ発覚の手掛りを書きとめておいて、統計的に調べると面白かったかと思うが、そんなことをやって見ても、トリックとして奇抜な手掛りというものは、大して発見出来なかっただろうと考える。
 探偵小説とか推理小説とか呼ばれるのだから、探偵の側の推理こそ創意の中心になるべきであるが、実際は、探偵小説の面白さは、主として犯人の側の考えぬいた、又は機智と独創のある犯罪隠蔽手段にあるので、作者の構想力は大部分この点に注がれ、探偵はただ、それの解説役にすぎない場合が多い。
 探偵の側の興味ある手法は、探偵小説よりも、むしろ犯罪史上の捜査実例や、法医学、捜査学の書物に尽きている。凡て正攻法であって、他奇なく、小説的面白さは乏しいのである。フリーマンは探偵の推理の方に中心を置こうとした作家だが、それ故に彼の作風は却って退屈になっている。法医学書に書いてあることを、そのまま繰返して見たところで、小説としては大して面白くないのである。
 血痕、指紋、足跡、毛髪などの鑑定、弾丸の個性鑑別、塵芥その他微細物の検鏡、偽造文書や筆蹟の鑑定、モンタージュ写真、嘘発見器のたぐい、等々、実際智識としては夫々興味深いのだが、それを小説家がそのまま記述して見たところで、たいしたことはない。小説は創意を尊ぶからである。
 だから、そういう極まりきったものはメモしなかったので、残るところは、実に貧弱なものになってしまう。しかも、それらとても、必ずしも法医、鑑識の領分を出ているわけではない。例えばこんなものしか拾い出せなかったのである。

(A) 物質的手掛り(17例)

【靴底に針をさしておく】ビガーズ「黒い駱駝」の機智。嫌疑者が部屋のどの部分を歩き、又立ちどまったかが、リノリュームの表面の、目にも見えぬ幽かな針のあとで判定できる。

【ドアの下部に針を立てかける】夜間、その部屋へ忍び込んだものがあるかどうかを確かめる機智。ドアをいくらソッとあけても、立てかけた縫針は倒れ、犯人はそれに気づかない。西洋の有名な作にこの例があったと思うが、メモには漏れているので今思い出せない。又、針の代りに、蜘蛛の巣のような細い糸を張り渡しておく方法もある。

【石の下の草】ドイル「ボスコム谷」。石の下敷きになっている草が、まだ生き生きとしているので、石はごく近頃そこへ置かれたと判定する。私はこれから「一枚の切符」を着想した。

【紐の結び方の特徴】俗に「船員結び」というのがよく使われる。結び方によって職業が分かるのである。だから、犯罪現場に何かが結んであったときには、結び目を解かないで、他の箇所を鋏で切ってほどくことが、捜査官の常識となっている。結び目を手掛りとして使っているのは、ドイル「アベ・グランジ」、同じく「ボール函」、私の「何者」など。尚、手を見て、タコの出来ている個所によって、職業が分ることは、捜査学の本に書いてある通りである。

【ズボンに跳ねた泥】シャーロック・ホームズは初対面の事件依頼者が、ロンドンのどの方面から来たかを当てて驚かせる。それはズボンに跳ねた泥の色を見て、それと同じ泥のある道路を通ったものと判断し、その方角を当てるわけ。ドイルとフリーマンが、この種の推理をよく書いている。泥やホコリによる探偵法は、実際の鑑識上重要な分野になっているが、その方面の先駆者、ハンス・グロースやロカールは、ホコリなどの微細物による探偵法は、探偵小説家に教えられる所が多かったと書いているほどである。

【指紋】は捜査科学の領分だが、指紋を個人鑑別に用いたことも、小説は非常に早かった(別項「明治の指紋小説」参照)。こういう風に、法医学、捜査学の領分の手法でも、それが一般化し、常識化する以前なれば、探偵小説に用いても充分面白いのである。

【われたガラスの復原】フリーマンの「オスカー・ブロズキー事件」では、現場におちていた眼鏡のガラスを集めて、復原して見たら、質と湾曲度のちがった小片がまじっていて、コップの破片と判明し、犯人が確かめられる。破れた写真や文書の復原、灰になった手紙の判読などいろいろあるが、いずれも今日では捜査科学の常識となっている。

【写真に写っている影の長さ】によって写した時間を判定し、いつわりの時間申立てを覆す。コニントン「当たりくじ殺人事件」。犯行当日の天候を天文台の記録で調べて、虚偽の申立てを覆す手法もよく用いられる。

【左利き】左利きに気づくことによって、犯人が決定する場合。クリスティー短篇「厩の殺人」、クイーンの「Zの悲劇」その他多くの作にこれが用いられている。

【急に大食になる】自室に犯人をかくまって隠しているので、自分の食事を分けてたべさせる。随って主人公は急に大食になったように見える。大食になったら誰かをかくまていると考えるのが探偵の常識。ドイル「恐怖の谷」、同じく「金縁の鼻めがね」、カー長篇「剣の八」。

【網膜残像】死の刹那に見た犯人の顔が、解剖すると網膜に残っていて、犯人推定の手掛りになる。ロバーツ短篇「イギリス製浄水槽」。こういう話は昔からあって、よく小説にも使われたが、科学的には否定されていたところ、最近は肯定するような研究も発表されるに至った。

【射手鑑別法】これは現に捜査上使用されているけれども、最も新らしい鑑別法に属するので、一言する。ピストルを発射すると、焔硝の微粒子が射手の方へもはね返ってきて、ピストルを持つ手や袖や肩、胸などに附着する。むろん目には見えないが、化学薬品で操作すると、それが現われて来る。その場に居合わせた人々の内、誰が発砲者であるかは、面倒な探偵を要せずして忽ち判明するわけだから、指紋などと同じに、探偵小説の領域を、それだけ狭めたことになるが、やがて指紋の場合の手袋と似た、犯人の側の対抗手段が発案されるに相違ない。この新らしい鑑別法を探偵小説に取入れたのは、私の読んだ範囲では、クレイトン・ロースンの1940年の長篇「首のない女」が早い。

 そのほか、わたしのメモには、吸い取り紙に残った判読困難の文字は、鏡に写して見れば分る(ドイル「スリー・コーターの失踪」)とか、ホームズの得意な煙草の灰の鑑別とか、網膜血管の配置が指紋と同じように人によって異るので、個人鑑別に利用する話とか、刃物で刺殺された場合、着衣の穴が、弾力のために刃物の幅より小さいことから生ずる誤認をただす(皮膚や筋肉も同様)とか。鉛筆の削り屑からその鉛筆の製造会社を判定するとか、筆蹟鑑定によって、親子が半分ずつ書いた文章と判断して犯人を確定する(ドイル「ライゲートの地主」)とか、いろいろあるけれども、いずれも大したものではない。

(B) 心理的手掛り(28例)

【犯人がウッカリしていた盲点を突く】「罪と罰」の壁塗り、私の「心理試験」の屏風の傷、スカーレット「白魔」の雨滴れ、同じく「エンジェル家」(私の翻案「三角館の恐怖」)の紙幣の番号、カー「皇帝の嗅煙草入」の犯人の錯覚による最後の破綻、ブッシュの長篇「百パーセント・アリバイ」で、突発事件を組み入れる為夕刊のおくれたことを知らず、夕刊を買ったことを証拠に時間アリバイを作って失敗する話、フローストの短篇「恐ろしき夕刊」にも同じ着想が使われている。それからポーストの短篇「神わざ」もこの種の機智の適例である。聾唖者の書いた文章のミススペリングは、耳のきこえる常人のように、発音上の間違いでなくて、目で見る字形のとりちがえであることに気づき、アブナー伯父が偽造文書を看破する話。

【丁半と藁人形】丁半の方はデュパンの名言。「盗まれた手紙」の中にこんな意味の言葉がある。「その子は『丁か半か』の遊びで、云い当てる名人だった。一人がオハジキの石を手に握っているのを奇数か偶数か当てるのだが、その子の必勝法は、相手の利口さを判断して、それに応じて答えをするというやり方であった。第一回に『丁』の数を握ったとする。余り利口でない相手の時は、『前に丁を握ったのだから、今度は半にしよう』と考えるだろう。相手が少し利口な場合は、そのもう一つ裏を考えて、最初の通り『丁』の数を握るだろうし、もっと利口な相手は、更らにその裏を行って『半』を握るだろうという風に、相手の利口さに応じて、表、裏、裏の裏、裏の裏の裏とやるのだ」この相手の智力に応じて推理するというのが、探偵のコツなのである。
「藁人形」の方はアブナー伯父の名言。「普通の犯人は犯行の証拠を一つも残すまいとする。それより利口な犯人は、藁人形(偽証)を自分の戸口に立てる。更らに一層かしこい犯人は藁人形を他人の戸口に立てる」というのである。デュパンの捜査哲学を今一歩進めた表現といってよい。

【読心術】一体に名探偵というものは人心看破術に長じているが、ここに云うのはポーの「モルグ街」でデュパンが「私」の目のつけどころや、ちょっとした動作からその心中を云い当てるのを、ドイルが真似て「滞在患者」と「ボール函」の中に、ホームズがワトスンの心中を云いあてることを書いている、あの読心術である。これらは直接犯罪事件の探偵には関係のない挿話だが、ヴァン・ダインは「ベンスン事件」などで、こういうものを事件解決の推理に使おうとして苦心したのである。

【美学的手掛り】美に鋭敏な人は、一度も見たことのない部屋でも、そこにちょっとした異常があれば、変だなと直感する。そういう美的直感によって、その部屋から消えうせていた小さな品物を推定し、犯人発見に成功する。一例、チェスタートン「極重悪の犯罪」。

【多すぎる証拠】二つも三つもの証拠が、やすやすと手に入ったときには、探偵は警戒しなければならない。真犯人が嫌疑をかけたい人物のために作った偽証の場合が多いからである(他人の戸口に藁人形)。古くはポーの「お前が犯人だ」、近代ではヴァン・ダインの「甲虫殺人事件」が適例である。更らに、もう一つこの裏を行って、わざと自分に不利な証拠を見つけ、こんなに証拠が揃うところを見ると、彼は真犯人ではないだろうと思わせる逆手がある。クリスティーの「スタイルズの怪事件」の一部に、この着想が用いられている。

【囮戦術】「犯罪者の愚挙」を犯人が進んで演じるように、囮戦術を使う場合がある。ミルンの「赤い家の怪事件」で、池をかいぼりして、問題の着衣を探すと云いふらし、犯人の方で深夜、先手を打って池に入る所を、押さえる手法などは、適例である。

【尾行戦術】サード・ディグリー式の尋問は、ていのよい拷問だという考え方からすれば、執念深い尾行も一種の拷問に相違ない。何も手出しをしないで、ただ尾行する。昼も夜も、どこへ旅行しても、たえずある男が身辺に付きまとっているというだけで、真犯人なれば、結局神経を消耗して兜をぬぐのである。この作例が二三あったと思うが、今題名を思い出せない。これなど「手掛り」とは云えないが、関聯して思いついたまま記した。

【附記、心理的探偵小説】心理的手掛りのことを書いたついでに、一般に心理探偵小説についても簡単に触れておきたい。私は探偵小説を書きはじめた初期から、物質的証拠による探偵小説よりも、心理的証拠によるそれの方が、深みがあって面白いと考えていた。「心理試験」(1925年発表)を書いたのも、そういう心持ちの一つの現われであった。ほかに、もっと心理的な手法を狙って書いた「疑惑」という短篇もあるが、これは失敗の作であった。「心理試験」は心理学者ミュンスターベルヒの著書「心理と犯罪」(1911)から思いついて、今の嘘発見器の前身ともいうべき脈搏計その他と、聯想語反応の遅速を計る心理試験に対抗する犯人の欺瞞が、結局「盲点」によって破れる話を書いたのだが、やはり何か物質的証拠がなくては極め手にならないので、ドストエフスキーの「罪と罰」の中の、心理的尋問に使われている「壁の塗りかえを見たかどうか」という手法をまねて、金屏風の掻き傷を用いたのである。ヴァン・ダインは、私よりあとで現れた作家だが、彼の第一作「ベンスン殺人事件」(1926)と第二作「カナリヤ殺人事件」(1927)には、あり来たりの物的証拠による推理ではなくて、心理的推理の小説を書こうとして努力したあとが歴々としてのこっているが、やはり裁判上の極め手として物的証拠をも併用せざるを得なかった。そして「グリーン家」以後の諸作では、当初の心理探偵への野心がだんだんうすらぎ、結局、ペダントリに含まれる物知りぶりと、教養とで美化した、普通の探偵小説に終っている。
 このヴァン・ダインの心理探偵への関心は、彼が編纂した「世界探偵小説傑作集」の有名な長序にもよく現れていて、彼以前の心理探偵小説の二人の作家を挙げ、熱意を以て、その代表作を紹介している。それはアントニー・ウインの長篇The Sign of Evil(1925前後)と、ヘンリー・ジェームス・フォーマンの長篇Guilt(1924)である。私は前者は本が手に入らなくて、まだ読んでいないが、同じ作者の他の長篇「二重の十三」を一読、これは一向面白くなかった。後者の「ギルト」は本が手に入って読んだが、これはやや面白かった。恋愛から起った殺人事件を、フロイト流の推理で解決している。(これについては終りの【附記】を見よ)
 クイーンの短編探偵小説史「クイーンの定員」(1951)には、精神分析的探偵小説に先鞭をつけたものとしてハーヴェー・オ・ビギンズの短編集Detective Duff Unravels It(1929)を挙げている。その説明文に曰く「凡ての犯罪には二つの面がある。一つはその物質的の面で、これは警察が捜査する。もう一つは犯罪者の心中の問題で、この小説の主人公ダフ探偵は後者の方を追求する。彼はある犯罪を、被害者の夢分析によって解決した。ある犯罪では盗難品の持主の細君の深部心理にある恐怖感を分析することによって、犯人を発見した。ある誘拐事件では、美しい女の抑圧された願望を分析して真相を発見した。又彼は精神病理的探偵の手段として恋愛感情を利用することまで発明した」
 日本の木々高太郎が最初の心理分析的探偵小説「網膜脈視症」を発表したのは1934年であった。初期の一連の心理的短篇には、彼の専門の条件反射学を取入れたものもあった。更らに近くは、純精神分析の長篇「わが女学生時代の犯罪」を1949年から翌年にかけて連載発表した。
 以上列挙した諸作の多くは、従来の探偵小説の構成法を変えないで、心理的推理の手法を取入れたものだが、これとは別に、ここ二十年来、欧米では「心理的スリラー」という別の形式の小説が発達し、従来の探偵小説を圧倒する勢で流行している。この形式は「謎を論理的に解く」という制約がないので、いくらでも心理的に、また文学的に描き得るわけで、謎と形式論理にあきたらぬ作家は、大いにこの方面に進むべきだと思う。


 以上、大急ぎで書いたので、不統一、疎漏を免れない。殊に〔第九〕の項などは、最初から計画してメモを取ったものでなく、全く体を成していないが、訂正増補は後日の機会に譲ることにして、ともかくも、私のトリック集成の第一稿を発表した次第である。御叱正を期待する。

【附記】左記は「宝石」昭和二十一年十二月号に書いた旧稿だが、前記の二つの心理的小説の説明として載せておく。


 ヴァン・ダインの探偵小説論の中に心理探偵小説に言及した左の一項がある。
「普通の医学者の素人探偵はよく書かれるが精神病理学者の探偵というものも、あってよいわけである。従来ともこの方面に理解ある普通の医家が探偵として登場している作品は少なくないけれども、純粋の精神病理学者を主人公として幾つかの長篇を書いた作家はアントニー・ウインAnthony Wynneである。かれの主人公、ハーリイ街の精神医ヘイリ博士は神経学と精神分析学とを併せ用いて、スコットランド・ヤードの企及し得ざる見事な探偵ぶりを示すのである(かれの諸作中ではThe Sign of Evilが最も優れている)。しかし精神分析探偵小説という意味ではフォーマンHenry James Formanの長篇Guiltが一層際立っている。この作は取材や結末の推理形式において探偵小説の常道をそれたような所があるけれども、しかし非常に面白い」
 私は以前からこの二つの作を読みたいと思いながら、つい果たさないでいたが、漸く今年のはじめウインの「二重の十三」The Double Thirteen(1925)を、又ごく最近フォーマンの「罪」(1924)を読むことが出来た。(ウインの代表作The Sign of Evilはまだ本が手に入らない)。「二重の十三」はやはりヘイリ博士の登場する作であるが、これは少しも面白くなかった。国際秘密団体の葛藤に基づく殺人事件を扱ったもので、大して創意のない長文の暗号解読が主題となっている。作中心理分析という言葉は屢々出て来るけれども小説そのものは一向心理的でない。この作のヘイリ博士にくらべてはシャーロック・ホームズなどの方がはるかに心理的だとさえ云える。ウインのものはもう二冊The Horseman of DeathとThe Mystery of the Ashesを手に入れたが、そういうわけでまだ読む気がしないでいる。だがThe Sign of Evilだけは読んでみたい。
 フォーマンの「罪」はウインに比べていくらか面白かった。と言っても是非翻訳してほしいほどではない。ヴァン・ダインは探偵小説の常道を外れていると書いたが、私はこれではまだはずれ方が平凡すぎると思う。もっとはずれてしかも探偵小説の体を成していれば更らに面白かったであろう。真犯人以外に二人の人物が次々と疑われるが、その第一の方は全体の筋と必然のつながりが弱く、取って着けたようで面白くないが、第二の嫌疑者の推定動機は純粋に心理的でなかなか面白い。
 AとBとは幼時からの親友でお互に独身、まるで兄弟のようにしてアパートに住んでいる。C嬢はAの恋人でやはり同じアパートにいる。C嬢はAとの結婚を熱望しているがAはいつまで待っても結婚しようとは云わない。C嬢が思うのにAはBと非常に仲がよくて、現在の生活に満足し切っているために結婚のことを考えないのだ。Bさえいなくなれば結婚出来る。だからBを殺す外はない。C嬢はこういう理由で疑われる。しかしこの心理は嘘ではないとしても、実際の下手人はほかにあった。最後に判明する真犯人はAである。この動機はフロイト的なコムプレックスである。意識では少しも憎んでいない親友Bを、彼の下意識は極度に憎悪していた。このコムプレックスから夢中遊行中の無意識殺人となったのである。それを犯人自身が自己催眠によって夢中遊行の再現を試み、自から真相を暴露するという筋である。たしかに変った作ではあるが、変り方がなまぬるい。余りに公式的である。又探偵小説のトリックとしては「月長石」につくような所もあって、大して創意が感じられない。これらの作が世界の代表的心理探偵小説というのでは甚だ心細いわけである。これらに比べては、作者の教養度に於ても、日本の木々高太郎の方が遙かに優れている。
 しかしヴァン・ダインがこの種の作品に関心を示したのには別の理由がある。彼は初期においてもっと広い意味の心理探偵小説を企てていたからである。私は戦争中ヴァン・ダインの諸作を読み返して見て、この事を強く感じたのだが、彼は探偵小説に筆を染める当初に於ては、物的証拠によらず、心理的証拠のみによる探偵法を創案し、謂わば探偵小説の革命を意図していたのである。処女作「ベンスン殺人事件」を念読すれば、この彼の苦心のほどが歴然と現れている。この作には「グリーン家殺人事件」や「僧正殺人事件」以上の深い意味が、作者のエポックメーキングなうぶな野心がこもっている。しかし心理的証拠のみによる推理は難事中の難事であった。さすがの巨匠も成功し得なかったのである。(私の近読の作品で比較すれば、このヴァン・ダインの意図は、古いザングウィルの「ビッグ・ボウ・ミステリ」などにある程度扱いこなされているように思われる。チェスタートンの諸短篇にもそれが感じられる)。第二作「カナリヤ殺人事件」では、もう心理的証拠だけでは持ちきれなくなって、物的証拠が採用され、「グリーン家殺人事件」となると、物的証拠の方が圧倒的に優勢になってしまっている。
 右のウインやフォーマン風の精神病理学、精神分析、木々高太郎風の条件反射学、ミュンスターベルヒ風の心理試験などを取入れたものを最狭義の心理的探偵小説とすれば、ヴァン・ダインの企図したものはそれよりずっと広く、それから第三には更らにもっと広い意味のもの、普通文学でいえばドストエフスキーよりプルウストに至る所謂心理小説に属する作風がある。探偵小説ではシメノンなどがこれに該当する。「心理的」という形容詞にはこの三つの異った場合を含んでいるのである。私は三つのいずれをも愛するものであるが、第一の狭義の「心理的」は内外ともその作例が乏しくない。やや征服し得たものと云っていい。今後に期待されるのは第二、第三の「心理的」である。心理小説の手法(第三)によって、推理の内容をも心理的に(第二)というのが、来るべき探偵小説への私の一つの夢である。


 尚、心理探偵小説については、次の二つの拙文を引用しておきたい。

【「幻影城」の序文の一節】本書「英米探偵小説界の展望」の中で、私はサンドゥーの評論に拠って、マーガレット・ミラーの長篇「目の壁」を紹介し、この作が新らしい本格探偵小説の一つの方向を示すものではないかと書いておいた。最近その「目の壁」を一読する機会を得たが、私の想像は少し大げさにすぎたようである。この小説は「意識の流れ」に近いほどの心理的手法で描かれているし、犯人は最後まで隠され、また非常に大きなトリックが用意されてはいるけれども、本格探偵小説の新方向と高唱するほどの創意は感じられなかった。この作の目新らしさは主として描写の心理的手法にあるが、それに対して犯人を隠すトリックが、どこかルパンめいた通俗的なもので、トリックと文体とがうまくマッチしていない恨みがある。登場人物が非常にデリケートな心理的洞察力を持っているくせに、このルパン式な欺瞞を少しも気づかなかったというのは、全体が心理的に描かれているだけに、一層不自然に感じられる。
 本書の私の紹介の文章には、精神病学者が探偵の役目をするように書いたが、他の作は兎も角「目の壁」では、精神病医は登場はするけれども、大して働くわけではない。それよりも警察の探偵が、なかなかの心理学者で、主たる推理役をつとめている。又、私の紹介文には「作者は犯人の心理を入念に撰択された無数の断片に分けて描いているので、読者は犯人と知らずして、しかも犯人の恐怖心理を十分味いうるという、一見不可能なことが為しとげられているらしい」と書いている。これはサンドゥーの文章をそのまま紹介したもので、実はこの点に私は最も大きな期待をかけていたのだが、「目の壁」を読んでみると、そういう感じは殆ど受けなかった。犯人の隠し方は従来の探偵小説とあまり変っていない。発覚以前の犯人の恐怖心理が、殊更らよく書けているとは考えられなかった。たとえ幾らかそういうものが出ているとしても、従来の優れた本格物には、これ以上のものがいくらもあったという感じである(例えば「矢の家」)。しかし、そうは云うものの、描写の心理的手法には新鮮な特徴があり、それでいて、最後に大きなトリックが隠されている点、やはり一つの新らしい試みであって、一読の価値は充分あると思う。


【同人雑誌「密室」昭和二十八年八月号に寄稿した「新心理探偵小説の一例」と題する小文より】昨夜読んだばかりのマーガレット・ミラー(米)の「鉄の門」について一言する。これは近頃になく感銘したからである。
 アメリカの批評家ジェームズ・サンドゥーは嘗つて、ミラーの代表作「目の壁」と「鉄の門」を評して「純探偵小説の興味を充分備えた心理的スリラー」だと云ったことがあり、そのことは拙著「幻影城」の「英米探偵小説の展望」の中に紹介しておいたが、私はサンドゥーの文章から想像して、これは心理的純探偵小説(「心理試験」風のものをいうのではない。心理そのものの謎やトリックを中心とするような作を指す)の新らしい方向を示すものではないかと考え、大いに期待して「目の壁」を読んでみたところ、期待ほどのものではなかった。(そのことも「幻影城」の序文の附記に書いておいた)。又、その後、昨年度好評であった彼女の長篇「瞬時に消ゆ」も一読したが、これは一層つまらなかったのて、私はミラーをあきらめてしまっていた。
 ところが、今まで入手できなかった「鉄の門」の方をある人から借覧して一読するに及んで、サンドゥーの文章が決して嘘でなかったことが分った。大した期待もせず読んだせいか、非常に感心した。終りに近いところなど息もつけないほどの面白さがあった。戦後で云えば、アイリッシュの「幻の女」、クリスティーの「予告殺人」、ジョセフィン・テイの「時の娘」(この作については今年の二月号の「中央公論」に書いた)などと同じ程度、ある意味では、それら以上にも感心した。
 どう感心したかということは、短い文章では書けないが(いずれどこかへ詳しく書きたいと思っている)心理小説にして、しかも大きな謎が最後まで隠されていること、心理的伏線がいろいろ敷かれていて、読後思い当たることが多く、それがちょうど物質的トリックの探偵小説のデータに当る役目を果たしていること、それらのデータは心理分析の角度から眺めてはじめて理解できる底のものだから、裁判上の証拠になるような確実度はないが、心理的には物的証拠より強い同感があり得ることなど、私のいつも云っている「心理的手法による純探偵小説の新分野」を充分示唆するものである。
 この作品自身が、この型の新探偵小説の完璧なるものとは、まだ云えない。動機その他にも不満がないではない。しかしミラーのもう一つの作「目の壁」の謎と心理的描写の組合わせなどとは全く違った新らしいものがあった。心理的純探偵小説の曙光のようなものが感じられた。

(「宝石」昭和二十八年九、十月号に執筆せしものを補訂)