Dパート

[S92]~[S112] 珠玉のDパート。ラストまで

Q2.S92.1 [S92-23]以降では二人とも自転車を押していないが、自転車はどこへ置いたのか。

A 不明だが、一旦紺野家に戻って置いてきたと考えるのがもっとも自然ではなかろうか。

Q2.S93.1 東京国立博物館のラウンジのシーン[S93-10]で千昭の「00」が点滅しているのは何なのか。

A 時間を一時的に止めていることを示す表示[演出解説 00:16:47]
 ちなみに、[原作]では深町は別途時間を止める装置を持っている。

Q2.S93.2 千昭のタイムリープの残り回数が残り少なくなったならば、一旦未来に新しい装置を取りに戻ればよかったのではないか。

A あのタイムリープ装置は未来でも本来入手が困難なのだと考えてはどうか。千昭が「どれだけ危険でも」と言っている[S93-1]ことからしても、本来軽々に使用できる装置ではないのだろう。さらに、真琴にタイムリープの存在を知られたことで、未来の世界で千昭がタイムリープ装置を入手することはより困難になったかも知れない。なお、[S110]の別れの後については、[Q2.S110.7]参照。

Q2.S93.3 千昭が見つけた装置が使用済みだったならば、使用前の時点まで装置を取りに戻ればよかったのではないか。

A 千昭がその使用済みのクルミを見つけたのが真琴へのチャージより前の時刻である[時間軸]ことに鑑みると、装置でチャージできるのは全ての歴史・時間を通じて1回だけで、タイムリープで戻っても再チャージはできないのだろう。つまり、装置は使用されると遡って使用済みになる。
 なお、このことは、以前の歴史が保存されるとの解釈と矛盾を起こす。装置が遡って使用済みになるとすると、装置が未使用であることを前提に行動していた人間がいる場合に、その行動の説明がつかなくなるからである。例えば、千昭が装置を「どこかに落っことしちまった」ときには、それは既に使用済みだったと考えることになる。使用済みならあせって探すはずもないが、以前の歴史は固定した形で保存されているとするとやはり千昭は探していなければならないのである。チャージを試みるまでは使用済みかどうか観測不可能という設定ならば、この矛盾は回避できるが、本編のあのクルミの描写ではその解釈は難しいだろう。

Q2.S95.1 スクランブル交差点[S95-1]の画面に隠された秘密キャラクターとは。

A 画面中心からやや右上寄りの人々の中に「赤白の横縞のシャツを着ている人がいる」[作画コメンタリ 01:11:17]が、実際の画面では潰れてかなり見にくい。位置については[公式ブログ 2007/06/10]参照。

Q2.S95.2 [S95]は渋谷なのか。

A モデルとなったのは渋谷だろう[ノートブック p.80]。ただ、倉野瀬の位置につき[Q1.2.11]上野近郊説、豊多摩説のいずれを採っても、倉野瀬周辺にある博物館から渋谷に徒歩で移動できるとは考えにくい。

Q2.S95.4 [S95-31]に「歩行者専用信号」が映るのには何か意味があるのか。

A もちろん、千昭が手の届かないところに行ってしまったことを赤信号で象徴しているのだろう。
 ちなみにこの前のカットではなぜか文字盤部分が「時差式信号機」との表示になっている。突然字が変わってしまうのも変だが、そもそも歩行者用信号機にこのような表示が付くことは実際にはあり得ない。時差というところは意味深だが、実際にこれに意味があると取るべきかどうか、回答者には判断しかねる。
 なお、細田作品には信号機の映るショットがしばしば見られる。

Q2.S95.5 千昭は姿を消すと言っているが、これは死ぬということか。

A 一部にはそのような解釈もあるようである。その解釈では、千昭の言っている「ルール」はタイムリープの存在を知られたら自殺しなければならないというものだと解釈することになりそうだが、それだと真琴が最後のタイムリープ[S103]で千昭を救ったときも千昭は自殺しなければならないはずである。真琴がタイムリープの存在を知っている事実は変らないからである。
 それはおかしいので、やはり、千昭の説明通り、存在を知られた人間とはそれ以上会ってはならないというルールであるに過ぎないと考えるべきではないか。そうだとすれば、必ずしも姿を消すというのが死ぬという意味だと解する必要はないように思える。
 ただ、千昭が消失能力を持っているという解釈には問題点もある[Q2.S110.4]。
 この設定について私見を述べれば、タイムリープを過去の人間に知られたら姿を消すというのではなく、より端的に、タイムリープ残がゼロになったまま帰れなくなったら自殺しなければならないというルールにしておいた方が分かり易かったのではないだろうか。

Q2.S96.1 [S96]で千昭が自主退学したことになっているが、その手続きはいつとったのか。

A スクランブル交差点で姿を消した後、コッソリ手続きしたと考えられなくもないが、どうも興醒めである。[原作]では、千昭にあたる深町一夫(ケン・ソゴル)は人々の記憶を操作できる装置を持っている。ここでもそれを使い、殊更に手続きは取らなかったと考えてはどうか。もともと、この種の手段が利用できなければ、転入自体不可能だろう。

Q2.S100.1 [S100-6]で和子が言っている「高校の時、初めて人を好きになった」というのは、[原作]の深町一夫(ケン・ソゴル)のことか。

A そのあとクローズアップになる写真は、[原作]の現在の角川文庫版の表紙の絵と、イラストレータ(貞本)や構図、人物が同じであることから、そのように考えたいところである。ただ、[原作]の和子は中学3年生だし、[原作]の発表年は1966年だから和子が2006年に30代後半というのも計算が合わない。したがって、どちらかというと、1983年公開で和子が高校2年生だった[大林版]の深町の方を指していると考えるべきかも知れないが、こちらの和子は1994年現在で薬学部に在籍している様子がラスト付近ではっきり描かれているので、その後に博物館に修復技術者として勤務しているのはやはり少々不自然である。そもそも、[原作][大林版]のいずれでも、和子は最終的に深町に関するほぼ全ての記憶を失うし、和子に姉もいないので[Q1.2.5]、どちらにせよそのまま設定を受け継いでいるわけではない。結局、厳密にいえばどちらでもない、本作オリジナルの設定上の(おそらくは)深町を指しているのだろう。以上につき[Q1.1.2]も参照。
 なおこの点に関連して、細田は「細田守セレクション角川アニメナイト」で、「本編でも原作準拠で昔あったことは覚えていないつもりで作品を作った」[かわさき 第十八話]との爆弾発言を行ったようである。しかし、そうすると高校の時に初めて好きになった相手というのは深町とは別人ということになるほか、一体タイムリープのことをどう知ったのかなど、数々の疑問が生じるので、回答者としてはこの発言は敢えて見なかったことにしたい。
(追記: [公式ブログ 2006/9/4]では微妙な表現になっている。)

Q2.S102.2 真琴の最後のタイムリープのシーン[S102]では、別に部屋の中からタイムリープしてもよさそうだが、坂道からタイムリープしたことになにか意味があるのか。

A タイムリープ時の跳躍の量は、概ね遡る歴史の数(時間の幅でなく、[時間軸]で言えば矢印の長さ)と正の相関関係があるように表現されているようであり、したがって遡る歴史の数が本編中最大であるこのシーンでは、跳躍の量も最大である必要があったのだろう。また、細田は[ノートコメント p.41]で「坂はある意味、不可逆性の暗喩とも言え」るとも語っており、それがもはや後戻りできない最後のタイムリープに相応しいとも考えられたのではないか。

Q2.S102.3 タイムリープの回数がゼロになったと思った真琴が、実は1回残っていたことに驚く 描写があるが、時が戻ったならば回数がゼロになった記憶もないはずではないか。

A 本作の観客からもっともよく指摘される疑問で、この点をどう説明するかで諸説あるが、私見では、千昭が真琴の時の静止を解除したとき[S91-1]、千昭が功介らの事故以降の部分を除いて真琴の記憶を回復させたものと解される[Q2.S90.5]。事故以降の記憶を戻さなかったのは千昭の思いやりだろう。なお、[Q2.S96.1]。

Q2.S103.2 [S103]で白の回廊を飛んでいる真琴が身を翻して前を向いているが。

A 白の回廊を真琴が前を向いて飛んだのはこの時が初めてである。もちろんそれは、真琴が未来に目を向けたことの象徴になっている。

Q2.S104.1 [S12]では理科室に来なかった友梨が[S104]では来ているのはなぜか。

A 描写はされていないが、実際には[S12]でも来ていたのだろう。

Q2.S104.2 [S104]ではノートが降ってきているから、ここは千昭に驚いた真琴が転倒したところであるはずである。ところが、このシーンには千昭がいないようであるうえ、すぐ後に入ってくる友梨が直後の[S105]では千昭とすれ違ったと言っている。千昭の行動はどうなっているのか。

A この点は説明が難しい。敢えて言うならば、(1)真琴がこの歴史に到着した瞬間には画面には映っていない位置に千昭が存在し、「フレームの外で」素早く廊下のドアから外に出たところで友梨に会った (2)真琴がノートにまみれて倒れてから友梨が声をかけるまでの時間はある程度長かった と解することで一応の説明は可能である。ノートが降ってきた時点で千昭が既にいないという点では[S12-37][S12-38]にも同様の問題があるのだが、演出の関係上この[S104]の方が違和感は強い。

Q2.S106.1 [S106-3]で、真琴が果穂ら3人を見て功介に「あのさあ、あの子たちも野球誘わない?」と言ったのはなぜか。

A 第一には、果穂と功介の関係を配慮したため。ただ、この結果、直後に告白されることになるのかどうかについてははっきりしない[Q2.S108.1]。
 第二には、真琴は千昭が今日限りでいなくなることを判っているから。そのままでは翌日からキャッチボールしかできなくなる。
 なお、功介も真琴に対して一定の特別な感情を持っていたと考える場合には、このシーンは、その後の「一緒に野球やりましょうってちゃんというのよ!」及び「待っててくれてありがとう!」と併せて、真琴が功介を振ったシーンなのだと考えることも不可能ではないだろう。

Q2.S108.1 [S108-2]で、真琴が千昭に功介は「来ない。」と言っているが、功介は[S106]で行かないとは言っていないし、真琴が功介に来るなとも言っていない。にも関わらずなぜこのように断言できたのか。

A これも難問である。この点については、功介が真琴に対して一定の特別な感情を持っていたという立場からならば問題が易しく、真琴が千昭を選び、功介は振られたということで決着がついたのだから、千昭の元へ走っていった真琴を追いかけるようなことはしないわけである。
 しかしそのような立場を採らない場合には、この日は星占いが最悪なので、果穂が告白するわけでもなく、功介が後からグラウンドに行かない理由はないようにも思える。ただ、以前の歴史で、7月13日であるにも関わらず、功介と急接近できたことで果穂が告白していることを考えると、このときも直後に果穂から告白され、グラウンドに行っているヒマがなくなるからと考えることも不可能ではない。しかしこの場合、それにしてはラストシーン[S112]における功介と果穂の関係の描写がやや淡泊に感じられるという問題がある。

Q2.S108.2 [S108-8]で、真琴が使用済みのクルミをわざわざ潰しているのはなぜか。

A もう後戻りせず未来に向けて走っていくという真琴の決意の象徴だから。そのことを促し続けてきた千昭の目の前でそれをすることに意義がある。

Q2.S110.1 [S110-8]で、千昭が「帰らなきゃいけなかったのに、いつの間にか夏になった。おまえらといるのが、あんまり楽しくてさ。」と言ったのに対して、真琴が「そんな言い方してなかった」と言っているが、[S93-16]では「帰らなきゃいけなかったのに、いつの間にか夏になった。おまえらと一緒にいるのが、あんまり楽しくてさ。」(相違部分の太字化質問者)と言っており、言っていることに大差がないように見える。この真琴の言葉の意図は。

A 「帰らなきゃいけなかったのに、いつの間にか夏になった」理由が「おまえらと一緒にいるのが、あんまり楽し」かったからというのは、嘘ではないだろうが、本音とも言い難い。本音は、真琴のことが好きだったからである。そして、真琴はそれを分かっていて、千昭に告白させたいという気持ちから、鎌を掛けたのだろう。

Q2.S110.2 [S110]で、千昭がなかなか告白しようとしなかったなら、どうして真琴の方から告白しなかったのか。

A 確かに真琴としては千昭に想いを伝えたいということもあっただろうし、そうした方が自分の意志で未来を切り開けるように成長した真琴らしいとも言えるだろう。しかし、真琴は[S97-4]で「人が大事なこと話してるのに、それをなかったことにしちゃったの…。なんで、ちゃんと聞いてあげなかったのかなぁ…?」と後悔したので、[S110]ではなによりもまず千昭にその大事な話をして欲しかったのである[Q2.S102.1]。

Q2.S110.3 [S110-18]で画面を横切る2人乗りの男女の自転車には何か意味があるのか。

A 細田はこの自転車を、千昭と真琴の「あり得たかも知れない別の時間」と表現している[演出解説 00:26:00]
 千昭の告白のシーン[S43-7]で、友人同士と見られる3人の女子中学生の自転車が横切っていることとの対比に注意。

Q2.S110.4 その後戻ってくるのに、[S110-20]で千昭の姿が見えなくなったのはなぜか。

A 姿を消す能力[S95]を使ったと考える立場(消失能力説)と、一旦未来へ帰ったからだが、その後また未来から戻ってきたのだと考える立場(帰還説)とが考えられる。帰還説ではその後すぐにまた未来へ帰っていったのはなぜかという疑問に答える必要があるが、[Q2.S110.7]の第二説はその答えとなり得るだろう。
 なお、消失能力説には、そんな便利な能力があるならば、どうして理科実験室でそれを使わなかったのかというやっかいな問題が残る難点がある。

Q2.S110.5 [S110-24]の「未来で、待ってる。」「うん……すぐ行く…。走って行く……。」の意味するところとは。

A 最大の難問。
 まず、これらが千昭の愛の告白であり、また真琴がそれを受け入れた言葉である、ということには問題ないだろう。
 問題なのは、千昭と真琴が、あるかどうかわからない再会の日[談話ノート 00:41:01]まで、お互いのことを想い続けていくという意味を含んでいるかどうかである。言葉を素直に受け取ればそういう意味になりそうだし、[原作]を始めとする歴代の『時かけ』でも、まさにそういう意味のセリフが深町との別れのセリフとして使われてきた。しかし本作品の場合、真琴はそういう和子「みたいなタイプじゃない」[S100-9]はずなのであり、この解釈はその点で適当でないのではないかという疑問がある。
 本作品では「走っていく」ことは、自ら未来を切り開くことの暗喩である。そこで、「未来で、待ってる。」は、そのように自立した個人として歩んでいくことを促す言葉だと考えてはどうか。

 ちなみに、細田が一旦は監督として参加し絵コンテも作成したものの、その後監督が宮崎駿に交代、仕切り直して制作がやり直された[ハウル]には、子供時代のハウルに主人公ソフィーが「未来で待ってて」というセリフがある。[Q1.1.1]も参照。

Q2.S110.6 [S110-26]の飛行機雲の表わすものは。

A 千昭が未来に去っていったことを象徴するものと見られる。ただ、夢オチ説[Q1.3.7]に立つ場合は、留学に旅立っていったことを示すものと解釈することになる。
 この千昭のタイムリープは、真琴が初めて自分の意志で跳んだタイムリープ[S21]と同じ場所・同じ日・同じ時間帯である[時間軸]
 ちなみにこのシーン、ジェットエンジンの音が印象的だが、この演出はトリュフォーの[アメリカの夜]を思い起こさせる。細田とトリュフォーについては[new]参照。

Q2.S110.7 件の“絵”の修復が済むまであと少しなのに、[S110]で千昭が未来に帰ったのはなぜか。

A 直接の理由は、千昭は真琴にタイムリープの存在を知られたので未来に帰らなければならないからである。しかし理由がそれだけだと、真琴が[S108]で千昭に事情を説明したのは早すぎた、数日して絵が公開されるまで待ってやるべきだったということになってしまう。その点をどう説明するかについてはいくつかの立場が考えられる。
 第一説は、真琴はあの絵を残すために努力する決心をしたから[S110-4]、現代で絵を見ていく必要はないのだというものである。素直な解釈ではあるが、それにしても、功介の事故はもう起こらないのだから、あと数日待てなかったのか、真琴も千昭のことが好きなのだから、もう少し一緒にいたくはなかったのか、という疑問は残る。
 第二説は、真琴は未来に向き合うことができないでいたが、それは千昭も同じだったとするものである(なお、[S14-11])。千昭は彼の本来の世界である未来の現実におそらくは向き合うことができないで、件の“絵”という過去に拘り、真琴の住む現代へやってきた。そして件の絵がないと判った後も、未来に戻る決心がつかずにぐすぐずと現代で時を過ごしていた。仮に数日後に件の絵を見ることができたとしても、おそらく千昭は未来へ戻るだけの気概を持たず、いずれは別れなければならないはずの真琴たちとのモラトリアムの日々から抜け出せずに、無為に時を過ごし続けることになったのではないか。“絵”は安らぎを与えてくれるものではあったかも知れないが、結局は、現実に向き合うことから逃げる口実に過ぎなかったのである。真琴は千昭のおかげで未来へ走り出すことができた。そして今度は、真琴がそんな千昭の背中を押してやったのである[S110-18]。この立場では、本作品は千昭の成長物語でもあったわけである。
 [S110]で別れた後、千昭は未来で装置を再入手してまた現代に戻り、真琴たちと共に過ごせばいいのではないかとの意見も見かけるが、第二説ではそれはあり得ないと説明できる(なお、[Q2.S93.2][Q2.S110.4]も参照)。

Q2.S110.8 千昭との別れのシーン[S110]で物語が終わっても良さそうだが、そうなっていない理由は。

A [演出解説 00:27:22]で細田が解説しているが、重要なので以下に一部を引用する。
 (画面にはラストシーン([S111]以降)が流れている。[S110]で終わってもよかったのではないかという意見もあるとの古川の問いに対して)「それはあるでしょうね…とは思うんですけども…自分としてはね、割とこう…どっちかっていうと、この別れ…もそうなんですけども、それよりは…こういう…大事な人と別れた後に、日常がさ、またこんな風な感じでやってきてさ、そこでこう…まあ、ちょっとだけ、日常がね、今こう…彼女たち3人が加わったってことで、ちょっとだけ変化してるけども…そん中で、真琴が笑っていられる、っていうのかな、ちゃんとしっかりとした笑顔でいられるっていう風なこと…が、自分としてはね、大きな結論だと思ってるんですよね。うん。…で、それはだから、多分千昭から…つまり、雲を見上げてさ、千昭から何を真琴はさ、受け取ったのかっていう…話だと思うんですけども。つまり、大事な人と別れるだけじゃなくて、何か…会ったことによって何かを得てるわけで…失ったと同時に何か得てるわけで、得てる何かって何なのかってことをね、なんかこう、ここでは…映画の最後に感じて欲しいな、ってことで…そういう意味でやっぱりこの…このシーンってのは…この最後のラストシーンってのは、必要なんですね。」(太字化回答者)
 なお、[S112]でのBGM『夏空~エンディング・テーマ~』には女性の笑い声が入っている。オープニング[S3]の『夏空~オープニング・テーマ~』にはない[Q1.5.2]。また、雲の意味について[Q1.3.12]。

Q2.S111.1 [S111]としてこの位置にわざわざ黒の回廊[Q1.3.5]のシーンが挿入されているのはなぜか。

A (1)もはや規則正しく時を刻むばかりとなった時の回廊のさまを示すことで、非日常が去り、日常が戻ってきたことを表わすため。 (2)ラストシーン[S111][S112]をファーストシーン[S1][S2]と同じ構造にして、この物語に描かれた出来事の結果、何が変わったのか、つまり、どのように事態が止揚されたか、を対照的に表わすため[Q2.S112.2]。
 同ポもそうだが、細田は対比・対照の技術が巧みである。なお、[記号論 (特に「モンタージュ」の章)][対比]。

Q2.S112.1 [S112-6]で真琴が「わたしもさ、実はこれからやること決まったんだ。」と言っているが、やることとは何か。

A それが何かについては本作品中でははっきりと示唆されておらず、絵が焼失する原因となったかも知れない「大戦争と飢饉」を防ぐための活動に関係しているかも知れないという程度のことしか言えない。この物語は、形式的には、真琴が文系と理系のどちらの進路を(なぜ)選択したのか[S10]という問い(=テーマ)に答えるものと解されるので、私見としては、もう少しその内容をハッキリさせるべきであったかも知れないと思う。そしておそらくテーマに対する答えは、「理系」であるべきだっただろう。
 なお、「やること」とは絵の修復技術者になることだという解釈もあるが、件の絵は傷んでしまったのではなく焼失したのだから[S93-4]、あまり妥当ではないと思う。  

Q2.S112.2 本編が真琴がボールを投げるカットで終わる[S112-12]のはなぜか。

A [S2-1]と同ポとすること(ただし日は違う)、及び直後にタイトルを出すことで、ファーストシーンとラストシーンを同じ構造にし、真琴の成長を対照的に見せて強調するため[Q2.S111.1]。なお[東京物語]。
 2つのカットの相違点は、(1)[S2-1]では背景に雲一つないが、[S112-12]では大きな雲が描かれている点[Q1.3.12]。(2)[S2-1]では真琴はボールを投げなかったが、[S112-12]では投げている点[演出解説 00:29:25]。[S2-1]で「あれ?」と言って投げるのをやめた真琴に千昭が「真琴! 早く投げろよ!」と言っていることとの対比なので、真琴がボールを投げることは、真琴が千昭のいる未来に向かって走り出したことの象徴になっている。

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