映画の世界だと監督がシナリオも書いちゃおうという作品は多いのですけど、私が思うにストーリーを作る才能と映像演出の才能は別物なのですね。
例えば黒澤明という人は偉大なる演出家ではあったけれど、脚本家としては実のところ大した成果を残せなかった。いろいろな作品が黒澤明も加わった共同脚本という形にはなってますけど、私はそれらのシナリオは実質橋本忍とか菊島隆三とかのプロパーの脚本家の方の力で出来上がったものだと思ってます。それは黒澤単独脚本の作品がほぼ例外なくシナリオの出来が悪いのを見れば明らかです。黒澤自身は脚本家になることに憧れていたようだけれど、結局最後までそうはなりきれなかった。
宮崎駿監督なんかもですね、見せ場の映像的心地よさみたいなのはスゴいけれど、シナリオ的な部分はそんなに上手くはないわけで。『魔女宅』とか『耳すま』みたいな原作ものとオリジナルものを比較するとそのあたりは顕著にわかります。オリジナルものは見せ場と見せ場の間が退屈な傾向があって、そこはシナリオの力の問題なんですよ(ただし、シナリオの問題が常に見せ場と見せ場の間にのみ作用すると言っているわけではありません)。
さらに言うと、作家主義だなんて言って粋がって自分でシナリオ書いてたヌーヴェルヴァーグの監督たちの作品だって、やっぱりシナリオの出来が悪くて、その辺似たような問題を持ってます。
やっぱり演出家がストーリー作りもやるというのはなかなか容易なことではないようなのです。
ただ、現在の邦画界のシナリオライターがマトモなオリジナル作品を書ける実力を持っているかという点については、正直私は懐疑的です。たぶん待遇が悪くて、才能のある人は小説なんかの方へ行ってしまうからでしょうけれど(脚本家には創作したキャラクターに関する権利が残らないしね)、今や邦画のシナリオ界にあまり大した人は残ってないし、入ってきてもいないと見てます。まあそもそもが邦画界ってのは恐怖のコネコネ社会((C)福満しげゆき)のようなので、有能な人が参入しにくい面もあるのかも知れません。
とにかくそういうことだと、邦画界が原作ものばかりなのも仕方ないことですね。
なお、原作ものだから脚本家が要らないかというとそうではないようで。原作があるからと、脚本料を節約しようと脚本も監督が担当した映画ってのは、大抵出来が悪いので。。。