『僕だけがいない街』(第1~4話)(TVアニメ)

 ニコニコ生放送(タイムシフト)にて鑑賞。

  • 主人公の藤沼悟は、アルバイトをしながらマンガ家を目指す冴えない29才の青年だが、一つだけ特殊能力を持っていた。それは「リバイバル」というタイムリープ能力で、周囲の人間に何か悪いことが起こると、勝手に数分程度時間が戻るというものだった。藤沼はそれを利用して何度も人助けをしてきたが、自分にとってはどちらかといえば損になることの方が多かった。そんなある日、ひょんなことから故郷の北海道から出てきて藤沼のアパートに住み込んでいた彼の母佐知子が、何者かに刺殺されるという事件が起こる。するとリバイバル能力が発動し、気づくと藤沼は小学生時代に戻っていた。時は昭和63年2月、所は北海道。藤沼は戸惑いながらも小学5年生としての生活を始める。ところで記憶によると、この年の3月にはこの地区で誘拐事件が発生し、同級生の雛月加代と杉田広美が誘拐後殺害されるのであった。加代は藤沼がひそかに思いを寄せていた女子で、事件後、彼女を救うことができなかったことを藤沼は深く後悔した。またその犯人として以前より小学生の藤沼の遊び相手をしてくれていた近所の青年「ユウキさん」が逮捕され、後に彼は死刑判決を受けることになるのだが、藤沼には彼が真犯人とは思えなかった。それを思い出した藤沼は、誘拐事件の発生を防ぐため、親から虐待を受けていた加代を救うことで彼女と親しくなり、事件の発生日には彼女を誘拐場所である近所の公園から遠ざけておくようにすることに成功する。
     気になるのは、リバイバルでこの時代に飛ばされたところからすると、誘拐事件と母の殺害に何か関係があるのかということである。果たして、ここからどうにかして佐知子の殺害を防ぐことはできるのか。そして差し当たり、藤沼は加代の誘拐を防ぐことができるのか。
  • 『ヤングエース』連載中のマンガが原作のノイタミナ枠アニメ。普段TVアニメは見ないのだが、『時をかける少女』の助監督の伊藤智彦氏が監督、同作「公式ブログの中の人」が原作協力(って何?)で、また世評も上々とのことで、珍しく鑑賞してみた次第。そして話のジャンルはまたもタイムリープものである。演出はやはり細田守の影響が強い。ノイタミナ枠だし、原作は青年誌のマンガだから、話も演出も、一応大人の鑑賞に堪えるものにはなっていると思う。
  • この話についてロマン(娯楽)要素の面からいうと、青年誌のマンガということもあって、この4話までの範囲で云えば、「小学生時代に戻って初恋のあの子とやり直したい」という願望を実現する、というような話になっている。なんとなくギャルゲーっぽい展開ではあるのだが、加代が親から虐待を受けていたことを奇貨として(?)、加代の信頼を得ていく過程が丁寧に描かれていて、その点はそれなりによく出来ていると思う。
  • ただ、概して話がダレがちである。これはサスペンスの作り方がいまいちだからで、その原因はほぼ犯人側の情報を伏せすぎているということに尽きる。サスペンスでは、犯人の身元を伏せるにしても、語り手ないしその仲間が狙われていて喫緊の脅威(パトス)の下にあるということは早い段階で明確に示さねばならぬ。そしてその後の主人公の行為は、何をするにしても、この脅威を防ぐことに関連していなければならない。ここから話が外れたとたんに観客は退屈を始める。
  • また、主人公の動機が強い倫理的信念に基づいていないのも気になる。どちらかといえば主人公が事件を防ごうとしているのは母親や恋人への愛情からだが、それは自分の都合に属する動機である。それでも殺人という非道な行為を防ぐのは矯正的正義にかなうといいたいところだが、そういえるのはその具体的ケースにおける殺人が正しくない行為であった場合に限る。前述したこととも関係するけれども、犯人の動機が明らかでないので、今回の殺人が正しくないのかどうかは現時点でなんとも言えないのである。一般論として、ここまでの展開における主人公のように、単に社会規範に忠実だというのは、社会に対するローヤリティの問題であって、その行為は立派というよりなんだか小市民的に見えるのである。信念に従って行動してはじめてその行為は倫理的に立派な行為となる。
     こういう状態で主人公の行為が成功した場合、観客は、脅威が取り除かれてほっとするには違いないが、主人公の行為をほめたたえようという気にはあまりならないのである。すべてのドラマのテーマは、究極的には誰のどの行為を褒め、誰のどの行為を弾劾するかなのであって、これが明らかにならないと、いつまでたっても話が終わらない。
     『時をかける少女』の成功の一因は、それが恋愛そのものというより、恋愛における倫理をテーマとしたからである。