Twitter / hiroki azuma: そういえばいつか使おうと思っていたネタなのだが、この …
この考え自体は作劇の世界では比較的一般的ですが(ただ、「選択」より「行動」「アクション」ということが多い)、アリストテレスの見解はある意味これと逆さまで、選択(行動)の結果性格が表わされるというより、性格(と思想)の結果として選択(行動)が生じるという考えです。
性格についてのアリストテレスの定義は次の通り。
性格とは、登場人物が(何を)選び、(何を)避けるかが明らかでない場合に、その人物がどのような選択をするかを明らかにするものである。それゆえ、語り手が何を選び、何を避けるかということをまったく含まない科白は性格をもたない。
定義らしきものはもう一カ所にもあります。
性格とは、行為する人々がどのような性質をもっているかをわたしたちがいうときの基準となるものである。
前者の定義の「それゆえ……科白は性格をもたない。」のところは、行為で性格を表わすというように読めなくもないのですが、次のような記述もあります。
行為にはおのずから思想と性格という二つの原因がある
幸福も不幸も行為に基づくものである。そして(人生の)目的は、なんらかの行為であって、性質ではない。人々は、たしかに性格によってその性質が決定されるが、幸福であるかその反対であるかは、行為によって決定される。それゆえ、(劇のなかの)人物は性格を再現するために行為するのではなく、行為を再現するために性格もあわせてとりいれる。
以上、松本仁助・岡道夫訳『詩学』第6章より。
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なお、「選択」ということの定義は『ニコマコス倫理学』のほうにあります。
まず前提概念として「思量」というのがありまして、これはおおざっぱに言えば、ある目的を達するための可能な選択肢について検討することです。そこから決断によってどれか一つを選ぶのが選択です。
「選択」も「思量」も同じことがらについて行なわれるが、ただ、選択されるのはすでに決定されたものにほかならないという点が異なる。思量に基づいて決断されたことがらが選択されるのだからである。
(中略)
「選択」ということは、われわれの力の範囲内に属することがらについての思量的な欲求であるといわなくてはならぬ。われわれは思量することによって決断したとき、この思量に基づいて欲求するのである。
以上、高田三郎訳『ニコマコス倫理学(上)』第3巻第3章より。
これだけだとよくわからないかも知れません。興味がおありの方は元の本を読んでみてください。
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アリストテレスの考えは以上のとおりです。
思うのですが、映画くらいの長さの現代の長編ドラマの場合、話の導入部では登場人物の性格の紹介が話の中心に来ます。そのときは、行為を使って性格が紹介されます。つまりその人らしいエピソードを提示して観客に性格を飲み込んでもらいます。しかし、導入部が終わって本題が語られはじめると、性格はそこで語られる事件の原因として機能するようになります。
だから選択の積み重ねで性格が表わされるということ自体はたぶん間違いではないのですが、アリストテレスは本題での機能の方に焦点を合わせていたのでしょう。
追記: 選択の積み重ねという考え方であれば、アリストテレスよりロラン・バルトあたりを参照した方が適切だったかも知れませんね。もっとも、性格という概念は使ってませんが……
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