WOWOWにて鑑賞。
- まだ白人と黒人の結婚が違法の州も存在していた時代のアメリカが舞台。一人娘を持つ白人の老いた父マット・ドレイトンが主人公。ある朝、娘のジョーイがマットの家に見知らぬ黒人青年ジョン・プレンティスを連れて来て、彼と結婚するつもりだと言いだす。突然それを聞かされたマットは妻のクリスティーナともども茫然とする。娘には肌の色で人を差別してはいけないと教えて育ててきたものの、実際問題、黒人と結婚するとなれば二人が苦労することは目に見えている。だが、純粋な娘は両親がこの結婚を祝福してくれるものと信じ切っている様子だ。ジョンに話を聞くと、この結婚が困難なものになりうることは理解しているので、ご両親に賛成してもらえないなら諦めるが、この後すぐにスイスに赴任しなければならないため、今日の夕食までの間に結論を出してほしいと言う。あまりに急な話にマットは混乱する。妻クリスティーナは娘が彼を愛しているならと賛成するようだが、マットはなかなか答えを出せない。悩んだ末、マットはやはりこの結婚には反対すると心を決めるのだが……
- 名優スペンサー・トレイシー(『カールじいさんの空飛ぶ家』の主人公カールじいさんのモデルで、特に本作では顔がそっくり)の遺作にして、アカデミー脚本賞受賞作。スペンサー・トレイシーとその妻役キャサリーン・ヘプバーンのコンビの安定感ある名演技は一見の価値がある。脚本はシーン数の少ない演劇的なシナリオで、話の中身は良くも悪くもウェルメイドな感じ。ただ、出てくる登場人物が皆誠実で魅力的であり、安心して家族で見られるハートフルストーリーの佳作に仕上がっている。アメリカ映画界にもこんなドラマが作れた時代があったのだ。
- このプロットが良くも悪くもウェルメイドだというのは、人物の魅力のほかには、主に主人公の葛藤がしっかりしているところに原因がある。自らの信条からも娘の期待には応えてやりたいが、娘が結婚生活で苦労するようなことも避けたい。そういう葛藤がドラマの早い段階で明確に描写されるので、この話で何が問題になっているのか観客が容易に理解できる。それがいいところである。
一方で、この葛藤は二つの望みがあまりにガッチリと相反し合っていて、妥協なしには解決が不可能である。それがこのシナリオの最大の問題である。本作を鑑賞中の観客が望むことは、わざと黒人差別がどぎつく表現されないこともあって、どちらかと言えば主人公が結婚に賛成することだと言えようが、仮にそうしたとすると二人は結婚生活において困難に直面するわけであり、それが果たして本当に望ましいことなのか確信が持てないはずである。したがって、観客の話の先行きに対する望み・期待は弱いものになってしまう。この作品の実際の結末では、結局主人公が結婚を認めたが、二人の困難な結婚生活という問題は解決されないままなので、見事な解決になっているとまでいい難い。 - 一般に、ドラマの葛藤には、相反する複数の望みがすべて叶えられる余地を残しておくべきである。そしてできれば、結末ではそれを実現させるべきである。あるいはそれができないにしても、その余地がある期間をなるべく引き延ばすべきである。もっとも、すべて叶えられる可能性があるなら相反しているとは言えないわけで、正確には相反しないで済む余地を残しておくべきだというべきか。
例えば、『ひぐらしのなく頃に』の第一話「鬼隠し編」における葛藤は、主人公圭一に親切にしてくれたために殺されたのかも知れない富竹の仇は討ってやりたいが、さりとて圭一を愛してくれるレナを犯人として告発するような状況に陥りたくもないというものであった。しかし客観的にはレナが犯人である可能性が否定もできない状況でもあった。もしレナが犯人なら、彼女を告発するなりして仇を討つか、あるいはそれを見逃して仇を討つのは諦めるかの択一であり、両方の望みが叶えられることはあり得ないことになる。しかし、レナ以外に犯人がいる余地も残っているから、ほとんどの読者は、この二つの望みを両立させるために、登場人物(この話ではそれが可能なのは主に主人公圭一だが、大石という線もある)がなんとかレナ以外の犯人を捜しだすことを望んだはずである。
なお、これが、この話で読者がフーダニットに関心を抱く理由となる。殺人事件が起こっただけでは読者はそれに関心を抱いたりしない。祟りかもしれないというだけで読者がそれに関心を抱いたりもしない。
ただしこの話で圭一は、実際にはその読者の望みとは少しずれた行動を取る。圭一自身が狙われているらしいというのでまず身を守ろうとするのである。このサスペンスは一つには圭一が問題を放置するという選択ができないようにするための作劇上の工夫だが、とにかく圭一が死んでしまっては犯人捜しは難航するから、結局読者もそれを支持する。しかしその結果として、逆にレナが犯人である可能性が高まっていく。クライマックスで圭一はレナが犯人と確信して彼女を殺してしまうが、これは葛藤を消滅させる出来事ではあるものの、葛藤の両方の望みが叶えられたことにならないから、もしこのまま話が終わっていたら名作とは呼ばれなかったろう(もっとも、アリストテレスなら悲劇の終りはこれでいいのだと言うのかもしれないが)。しかし後にシリーズ全体の結末で、読者のこの二つの望みは叶えられることになる。 - 概していえば、葛藤の根本原因が社会問題にあるような社会派の作品の場合、すべての望みを叶えるような解決が困難になることが多い。『招かれざる客』に話を戻すと、本作もそのパターンである。黒人差別は社会の側の問題であって、登場人物たちの一存でどうにかなるものではない。敢えて妥協を避けたいなら、前提の認識そのものに勘違いがあったという方向性も考えられるが、実のところそれでは両方叶えられたというより両方叶えられなかったといった方が正確で、なお悪いようでもある。例えば黒人青年ジョンが実は結婚詐欺師だったなどということにすれば、それを知ったジョーイも結婚したいとは言わなくなるはずだが、そんな結末では観客としても納得がいかないのではなかろうか。
こういう場合は、むしろ無理に葛藤を解決しようとするよりも、結婚を諦めるとか、あるいは結婚したけれどあまりにつらくて離婚するとかというようなアリストテレス翁好みの悲劇的な結末にしておいて、黒人差別の問題性を観客に訴えるというやり方の方がふさわしいかも知れない。そうするとハートフルストーリーとはとても言えなくなるが……
75点/100点満点