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Re: 崖の上のポニョが神過ぎた件

崖の上のポニョが神過ぎた件

はてなブックマーク数が1000を超える人気エントリですが、この件に関連してちょうど面白い文章を見かけたので紹介します。宮崎監督の話ではありませんが。

(前略)読むという行為は受け身のものではなく、極めて能動的なものである。福武文庫の『黒沢明語る』(聞き手: 原田眞人)を読んだ。原田氏の黒澤監督への迫り方に、わたしは深い共感を覚えた。『八月の狂詩曲』について、原田氏は次々と創意ある意見を述べる。≪話したいことがいっぱいあってどこから質問していいかわからないのですけれども≫という感動的な出だしで始まり、

音楽一つにしても、「野ばら」とヴィヴァルディが見事な調和で盛り上げる。音楽で言うなら僕には「ボレロ」も聞こえてきた。画面の流れが「ボレロ」なんです。それも早坂(文雄)さんが『羅生門』でやられた「ボレロ」。絵(画面)をつないでいるときとか、脚本をお書きになっているときに「ボレロ」を意識されましたか。
黒澤 いや、それは意識していなかったですね。
(中略)
なぜ早坂文雄さんの「ボレロ」が聞こえてきたのかなと、自分でもいろいろ考えてみました。『八月の狂詩曲』は入道雲のショットから始まっていますね。『羅生門』は入道雲で終わりたかったけれども終われなかった映画だということを、どこかで黒澤監督が書いておられて、それを読んで記憶にあるのですけれども、入道雲で始まって、タイトルが出て、四人の子供がおばあちゃんの田舎の家で過ごす夏のドラマがあって、最後の『羅生門』の導入部のような土砂降りの雨になる。ちょうど『羅生門』と逆の形なんです。
黒澤 (笑いながら)まあ、そういう具合にこじつければね。
(中略)
ジャングルジムが早坂さんで、杉林の方は落雷受けて心中したという、その台詞も含めて黒澤監督のお兄さんのような感じがして、その彼らに「もうすぐ行くから会おうよ」という感じがしたんですけれども。
黒澤 べつに全然意識していなかった。
(中略)
『八月の狂詩曲』は原作が『鍋の中』(村田喜代子)、『羅生門』の場合は『藪の中』(芥川龍之介)ということもあって、わりと人間関係のごたごたしているところとか、『羅生門』とつながっている部分というのはありません?
黒澤 ない。

茶化しているのではない。この本は発見の多い本だが、それを支えているのは、このような原田氏の創意だと思う。作品はそこにあっても、それを読むのは個々の読者なのである。(後略)

北村薫『謎物語―あるいは物語の謎 (中公文庫)』より

脚本家・橋本忍が語る黒澤明~“七人の侍”誕生の軌跡~

木曜日にNHK BS2で放送された「脚本家・橋本忍が語る黒澤明 ~”七人の侍”誕生の軌跡~」を遅ればせながら録画で見ました。

先々週くらいにやはりNHKで特集されていた新藤兼人氏もそうでしたが、橋本忍氏も90代にしてはお元気そうな方でした。

内容は『複眼の映像 私と黒澤明』(Amazonアソシエイト)をなぞるような感じで、あまり目新しい情報はありませんでしたが、七人の侍のシナリオがどうやらキャラクター先行型だったらしいというのは興味深いことでした。キャラクター先行型、つまりキャラクター設定を先に詳細に決めてストーリーは比較的成り行き任せに書いていくというやり方は、アニメやライトノベルでは特に一般的なようです。ただこれ、物語の結末が締まらなくなりがちという欠点があるのですよねえ。そしてそれは『七人の侍』も例外ではなかったと思います。

橋本氏のモットー「シナリオは下手に楽に書け」は前掲書にもありましたが、あちこちのブログで取り上げられている様子。もっともな話ですが、あまり真に受けすぎるのもまずそう。少なくとも、その後に直しの段階があることは大前提です。

追記: このモットーの内容について詳しくは例えば次のページ参照。
ありがとう橋本忍先生(ToT)

小野文恵さんはこの番組の聞き手には若干合っていないように感じられました。番組の性質上、どうせもともとある程度映画好きの人しか見ていないのだから、無理に盛り上げる必要などないのだし、ちょっと反応が大げさ過ぎて感情の押しつけになってしまってます。

番組で言及されていた本はこちら(Amazonアソシエイト)。高い…
悪魔のように細心に!天使のように大胆に! (1975年)

福本次郎氏の見方

こちらとかこちらで話題になっている福本次郎氏の批評に対する批判についてなんですが。

私が見た映画についていうと、『スカイ・クロラ』で押井監督がアニメばかり見ている現代の若者へのメッセージを込めて作品を作ったとか、『ポニョ』は宮崎監督が子どもに喜んで貰うための映画として作ったとか、『ダークナイト』のジョーカーはバットマンシリーズの伝統として狂人キャラである(らしい。実は筆者もよく知らない)とかといったことはですね、すべて見る前の予備知識として映画の外で得られたものでして、もしこれらの予備知識抜きに作品を見た場合に、上記の記事で示されているような解釈が期待可能かというと、私の見た限りでは、少々心許ないところがあるものも存在すると思うのですね。

プロとして批評するならある程度の予習は当然しておくべきという批判はあり得るところですが、プロとして大量に見ているからこそいちいち調べていられないということも実際にはあるかも知れない。まあそれはともかくとして、福本氏の評論はそういう予備知識なく見に行くような一般の人々基準の感想がどういうものか観測するという意味での価値はあり得るんじゃないかという気もします。そしてまた、『スカイ・クロラ』はともかく、残りの2作は純然たる娯楽映画たることを期待される作品ですから、予備知識なく見たときに福本氏のような誤解を生じる余地があったということは、それ自体が作品の瑕疵であり、それが示されたことに価値があると考えることも不可能ではないと思うわけです。

追記: というこれだけの記事なんですが、どういうわけかGoogleで一ページ目に表示されていることと、ネットでは唯一(?)の擁護論であることもあってか、このブログではダントツにアクセス数の多い記事となってます。大したことなくてスミマセン。
ちなみにこのページに来られた方には、福本次郎氏がどのような方なのか、プロフィールをお知りになりたい方が多いと思われますが、私が検索した限りでは批評が載っているcinemaonline.jp上にあるもの以外は見あたらないようです。

押井守

アニメ界のダブル守といえば細田守と押井守。『スカイ・クロラ』公開の関係でTV放映されたこともあって、押井守作品をいくつか久しぶりに再見する機会に恵まれましたが、漠然と、押井守オリジナル脚本の作品ってなにかが足りないなあという感じがしました。具体的にそれは何だろうとしばらく考えていたところ、一つ思い当たることがありました。

登場人物が広い意味での「義務感」で動いてますよね。パトレイバーでは、警官の職責だから犯人を捜すのだし、ビューティフルドリーマーでは全員参加必須の学校行事だから生徒の義務として学園祭に参加する。これは物語の辻褄を合わすという意味では説得力はありますけど、反面、キャラクターの欲望が見えてこない。欲望が見えてこないと本人の性格が見えない。性格が見えないと人物の印象や魅力が薄くなる。

パトレイバー2では南雲隊長の行動原理に若干欲望の要素が垣間見えたかなというところまではいったのですが、結局2度ある柘植との邂逅で、南雲隊長は彼と駆け落ちするのでなく彼を逮捕するという選択をする。やっぱり結局、警察官としての職責、義務を優先するストーリーになってるわけです。

ところが、スカイ・クロラではその一線を越えたようにも見えます。ストーリーはほぼ原作小説通りなんですけど、小説では恋愛の要素はごくほんのりと香る程度に過ぎないのが、アニメの方ではかなり前面に押し出されてます。とはいうものの、スカイ・クロラでは押井守監督は脚本を担当すらしていないのですよねえ…