『All You Need Is Kill』(桜坂洋著・2004・小説)【ややネタバレ】

 数年前に買ったまま積読になっていたライトノベル。このたび映画化されると聞いてなんとか公開日までには読み切ろうと再チャレンジ、ぎりぎり間に合った次第(7月4日公開)。なお、映画化版の原題は『Edge of Tomorrow』。

  • 人類が正体不明の生物「ギタイ」の群れに襲われるようになった近未来の日本が舞台。主人公キリヤは、そのギタイに対抗するために人類が組織した「統合防疫軍」に入隊した初年兵である。キリヤはある日いよいよ初めての戦闘に参加するが、敵の圧倒的な力になすすべもなく瀕死の状態に陥る。そこで彼はまだ19歳の少女ながら防疫軍のエースであるリタと出会う。キリヤは最後の力を振り絞って1匹のギタイを倒すことに成功するも結局戦死する。ところがその直後、キリヤは出撃前日のベッドで目を覚ますのだった。キリヤは再び前回と同じような2日間を過ごし、同じように戦死するが、また同じようにベッドで目覚める。周囲の人間は何も知らないようだが、どうも死ぬと記憶だけを残して時間が戻るようだ。そう理解したキリヤは、各「ループ」で経験したことを次回に活かすことで、なんとか戦闘を生き延び、ループから逃れようと決心する。だが、ループに陥っている人間はキリヤのほかにもう一人いたのであった…
  • いわゆる「ループもの」(広い意味ではタイムトラベルもの)のライトノベル。今となっては、えっまたこれもそうなのという感じもするが、Wikipediaなどを見る限り、ループものがサブカル方面で流行りだしたのは2002年のギャルゲー『ひぐらしのなく頃に』あたりが嚆矢らしく、当作品の初出2004年頃はまだ新味があったかも知れない。
    まあもちろん、大本としてはインド哲学の輪廻転生思想というものがあってマンガでは手塚治虫の『火の鳥』が作られていたし、またそれから直接影響を受けたかは別として、SF小説としては『時をかける少女』(1966)、夢オチの濫用という意味では『パプリカ』(1993)、映画方面では『恋はデジャ・ブ』(1993)、『ラン・ローラ・ラン』(1998)などもあり、既に前例は大いにあったわけで、その意味では伝統的なSFの一形式とも言って云えなくもない。
    なお、サブカルの批評家はループものをゲームの「セーブ地点からの再スタート」を真似たものと分析するようであり、この作品の作者あとがきにもそれを示唆する表現があるのだが、このような前例を見る限り、そういう作品もあるかも知れないが、必然的な関係はないように思う。
  • いわゆるライトノベルの定義には定説がないようだが、私見では、ハイティーン男子向け純愛ロマンス小説というあたりが本質的定義だろうと思う。男子向けロマンスだから、男子から見たある種の理想の女子を描くのが最大の目的の一つとなる。そして敢えてもう少し条件を追加するなら、多くのライトノベルで描かれる女子の理想像は、時に男をリードしてくれる強い女子である(多分原型となっているのは『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996)のレイとアスカ)。これを男子の軟弱化であって嘆かわしいことと見るか、この問題の評価に深入りすることは避けるが、ライトノベルはオタク文化とジェンダーフリーの社会の申し子のような小説だとは言えるかもしれない。ともかく現実としてそういうフォーマットになっているのである。
    集英社のライトノベルレーベルから発売された本作も一応、そのフォーマットに則っており、初年兵で情けない戦いしかできない男子の主人公から見た、戦いで向かうところ敵なしの少女兵リタが描かれる話と云えなくもない。ただ後述のように、良くも悪くもそのフォーマットからズレている部分がある。
  • 話の出来についてだが、「ジャパンのレストランのグリーン・ティーは確かに無料だ」のシーンは確かに決まっていた。多分作者はこれがやりたくてこの話を書いたのではなかろうか。ただそうするとその他のシーンはこのシーンから逆算して書いたということなのだろうが、それゆえの難点が生じている。つまり、このシーンを軸にこの話を別の面から要約すると、孤独な戦いを続けてきたリタがキリヤという理解者を得る話ということになるが、これだとリタから見たキリヤを描いた話ということになるので、前述のライトノベルのフォーマットと正反対になってしまうのである。そこを無理にフォーマットに合わせてキリヤ視点で語ろうとしたものだから、前半のキリヤ視点の筋を読んでいるとなんとなく重たいのである。当ブログの筆者が読み終えるのにこんなに時間がかかったのも、それゆえに話に惹きつけられる力が弱かったからである。
    むしろこの話はリタとキリヤの立場を逆にした方がよかったのではないだろうか。
  • もう一つ指摘したいのは結末の付け方である。この話の「結果」は、キリヤがリタからエースの立場を受け継いだということであり、その結果はリタの決断から生まれたわけである。最近同じことばかり書いているが、物語の結末は、語られた出来事の結果とそれを齎した決断(行為)を評価する場だから、リタが命を投げ出してキリヤにエースの立場を譲ったことが良いことであることを示さないといけないと思うのだが、実際の結末はそうなっていないように思える。

75点/100点満点