『うみねこのなく頃に』体験版(同人PCゲーム・2007)

 『ひぐらしのなく頃に』の同人サークル07th expansion(竜騎士07氏)により2007年から2010年にかけて制作されコミックマーケットで販売された、大きく言えば『ひぐらし』の後継シリーズが『うみねこのなく頃に』。その第一話に相当する部分を収録した体験版。
 とにかくこのシリーズは、謎解きが不十分なまま完結したことなどで、ネットで大変な悪評を受けていることで有名。それもあって体験版のプレイを終了した現時点でも製品版を購入すべきか迷っているところであり、ひとまず体験版部分だけの短評を記しておく。

 話の中身だが、『ひぐらし』の元ネタが横溝正史の『八つ墓村』だったとすれば、今回の話の元ネタは明らかにアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』だろう。この『うみねこ』のあらすじをざっくり言えば、絶海の孤島に建つ大邸宅に老富豪と使用人たちのみがひっそりと住んでいたところに、あるとき息子や娘たちの家族が親族会議のために集まってきたのだが、折悪しく台風がやってきて外部と孤立した状態となり、そのため足止めを食っている数日の間に、島にいる人間が不可解な詩によって予告された通りに何者かによって次々に殺されていき、警察がやってきたときには全員殺されていたという話である。類似性は明白だろう。最後に瓶詰の手紙が出てくるところもそっくりだが、残念ながら現段階では真相は明らかになっていない。
 老富豪はこの島に住むとされるベアトリーチェという姿の見えない魔女の存在を信じていて、物語の中ではこの連続殺人がこの魔女の魔法によるものかも知れないことが示唆され続ける。それに対して、老富豪の孫である主人公戦人(ばとら)は、そんな馬鹿なことがあるわけがない、これは島にいる人間の犯行に違いないと疑い続ける。そのあたりは、やはり死の原因が祟りか人間かが論点となった『ひぐらし』と同じである。また、どうやらこの後話がループするらしいところも共通する。
 アリストテレスは二つのドラマが同じかどうかは謎とその解決が同じかで判断するのが正しいと言っている(『詩学』1456a)。『ひぐらし』もそうだったが、この『うみねこ』も謎の主要な部分は元ネタとかなり類似しているので、オリジナリティを出すとすれば解決の部分しかない。『ひぐらし』ではその内容に批判はありつつもともかく独自の解決が付いたが、本作のように作者が謎解きをしないとなるとオリジナリティを出しようがないのではないか。それが現時点でやや気がかりである。

 作劇上興味深いことは、『ひぐらし』『うみねこ』における元ネタ作品との共通点に鑑みるに、竜騎士07氏の作劇スタイルは、アリストテレスが説くように「真相を作ってからプロットを考える」のとは異なり、「プロット(の骨子)を作ってから真相を考える」形らしいということである。プロット(謎)から真相(謎解き)を考えるという順序だと、謎そのものはやりたい放題に作れるから、読者の興味を惹くという面では有利だが、謎解きを考えるという面では真正面から読者と知恵比べすることになるので作者にとってかなり不利なはずである。なんとか読者を出し抜けたとしても驚きが小さいか、あるいはなんらかの破綻を含む解決となる恐れが高い。ただ今回に限って言えば、なにしろ謎解きをしないで済ますという話だから、これはこれで正解なのかも知れない…なんとなく納得がいかないが。

 それでも一応犯人について考えてみたいが、ただ現段階では情報が出きっていないはずだから、今推理してみてもどうせ意味のある結果は出ないだろうとも思う。『誰もいなくなった』に鑑みれば、誰が死んだかすら本当のところは定かでない。実際、作中では殺人が起こるたびにろくに死亡確認もしないまま事件現場の部屋をロックアウトしている。また、『ひぐらし』でも死体のすり替えトリックがあった。
 また、この作者は前作『ひぐらし』で「信頼できない語り手」の手法を用いていることから、地の文の記述と言えども容易に信用できない。特にこの話の終り方では、この第一話の語り手が真里亞だったと解釈できる余地があり、魔女を信奉する彼女が事実をゆがめて報告した可能性も否定できない。あるいはバラに幻覚作用でもあるのかも知れぬ。こんなことを言い出したら推理小説なんて成立しないのだが、この作者は、本当は推理小説と言うよりツヴェタン・トドロフが言う意味での幻想文学を目指している節がある。しかしこの点はひとまず置いておく。

 『ひぐらし』でもそうだったが、この話は差し当たり序盤である現段階では、連続殺人が人間によるものではなく、超自然的な力によるものと考えた方が、自然と言えば自然な話になっている。『ひぐらし』と比べるとさらにその点が強調される終わり方である。にも関わらず、やはり大半の読者は最終的には人間の犯行であることが明かされるはずだと期待しているはずである。この期待はどこから来るのだろうか。この話のジャンルがミステリーだから、と言いたいところだが、あいにくタイトル画面のどこにもこの作品がミステリーだと明示されてはいない。
 けだし、これは語り方から来ている。物語の語り手は、すべてが終わったあとに聞き手に出会い、すべてを知ったうえで出来事を語っている。だから、もしこれらの殺人が魔法によるものだったなら、語り手は結果的に無駄な疑問に過ぎなかった人間の犯行という可能性について詳しく語ったりしないはずである。にも関わらず詳しく語っているということは、やはり人間の犯行だった可能性が高いと解釈されるのである。
 あるいは、もう少し具体的にこう表現することもできるかも知れない。ドラマには、主人公の行動がドラマの結末に重要な影響を与えなければならない(ドラマの結末は主人公の行動の結果でなければならない)という規則がある。これはいわば主人公の定義である。ところが、魔女が実在して予言通り全員を殺したというのが真相だとすると、主人公戦人が作中でしている犯人捜しの活動は、してもしなくても全員死亡という結果に影響を与えないことになる。これは規則に違反する。今の話の内容を前提とすると、彼が結末に影響を与えうる道は、人間の犯人が実在して、彼がその犯人を見つけて犯行を防ぐ、という方向しか考えられないからこそ、読者は魔女否定説・人間犯人説を信じるのである。
 仮に、主人公がはじめから魔女の実在を信じていたら全員は死ななくて済んだというのなら話は別である。それなら主人公が信じないせいで全員が死んだと言えるので、規則に適合する。予言ではいずれにせよ全員死亡することになっているから、今のところの話の内容ではこれはあまりありそうではない。ただ一つ気になるのは例の宝探し条項である。戦人が宝探しをしなかったから全員死亡した、ということは言えるかもしれないのである。とはいえ、戦人は挑戦してみたもののまったく手がかりがなかったわけだから、今のところそういうことは言えない。不可能な行動をしなかったことについて因果関係を認めることはできないからである。しかし、今後の展開でこの点に進展が見られれば、話はにわかに魔女の実在を前提としたものに転化する可能性がある。
 思い切って、この話の主人公は戦人でなく魔女ベアトリーチェなのではないかと考える方もあるかも知れない。しかしそう考えるにはベアトリーチェの行動の動機が示されなさすぎる。動機が示されないと何がまずいかというと、彼女の行動とそこから引き起こされた結果が倫理的に見てどのように評価されるべきかがわからなくなるのである。ドラマの結末として起こることは、倫理的に見て望ましいか望ましくないかでなければならない。例えば、正しい行為に利益がもたらされれば望ましい結果だし、正しくない行為に利益がもたらされれば望ましくない結果である。そして行為が正しかったか間違っていたかを示すためにはその動機の描写が不可欠なのである。ベアトリーチェが主人公だとするとこれらの規則に違反する。したがって、今のところ、ベアトリーチェ主人公説をとることはできないと考えるが、ただこれも今後の展開次第ではある。
 裏から言えば、読者が戦人を主人公だと解釈するのは、作中に戦人の出番が一番多いからというより、戦人の行動がその後に起こり得ること(事件の解決)の正しい動機として十分納得のいくように説明されていると感じているからであろう。

 現時点で娯楽性の面で特に問題だと思うのは、サスペンスがかかり始めるタイミングが遅いことである。『ひぐらし』にもそういう傾向はあったが、この話の方が問題が大きい。これは、『ひぐらし』では主人公が狙われているらしいことが明確であったのに対し、この『うみねこ』1話では主人公が殺されるべき人間の中に入っているのかどうかが終盤に入るまであまり明確にならない、もしくはそうであることが強調されないからである。ミステリー要素は濃くなったがサスペンス要素が薄まったと言える。

 そういう欠点はあるが、総合評価としては、ネットでの悪評にも関わらず、現時点では悪くない感触である。なかなか読ませる話になっていると思う。ただ、ネットの評判でも問題が顕著になるのはシリーズ後半からということになっているらしいので、製品版を買うかどうか考えどころである。