詩学 (三浦洋訳)

 別にアリストテレスの研究をしているわけでもないのだが、『詩学』についてはある程度読み込んで簡易用語集という記事を書いたこともあった。そのため新訳が出るとちょっと気になる。
 近年では、岩波書店で新しいアリストテレス全集が出て、そこに『詩学』が入ったという話は聞いていたが、なにしろ高いので読む機会はないままであった。しかしそれとは別にいつの間にやら光文社の方で新訳が出ていたようで(2019年)、こちらは文庫版プライスでお求めやすく、先日購入した次第。岩波の文庫本の方は従来のバージョンのままようで、光文社としてはこの状況なら新たに出しても勝負になると踏んだのだろうか。

 この訳で目を惹いた点を箇条書きで。

  • 「筋」という訳が定番だった「ミュートス」というギリシャ語の訳が「ストーリー」になっている。わかりやすい言葉ではあるが、物語学でプロット、ストーリー、ミーメーシスといった用語を対義語の関係で捉える説も有力ななかで、大胆な訳とも言える。
  • 「エペイソディオン」の訳が「挿話」になっている。これは比較的一般的な訳し方だが、挿話という言葉はなにか本筋から外れたものという印象を与えるようで個人的には好みでない。「エピソード」なら許容範囲のように感じられるが……
  • 5章における悲劇の長さが一日以内という記述について、上演時間が一日以内という解釈を採っている。三一致の法則がこれを根拠としたというのは誤解と断じている。しかし私見では、やはりこれは劇中の時間が一日という意味だと思う。三一致の法則は現代ではあまり守られていないが、しかし少なくともシークエンス単位での劇中の時間が長すぎる構成のドラマは、ドラマというよりドラマのあらすじを見せられているような感じがするものである。これはストーリーテリングにおいてかなり普遍的に妥当する法則であって、古代ギリシャでそれが意識されていたと見ても不思議ではない。
  • 「ミーメーシス」の訳は「模倣」。オーソドックスな訳であり、また章によってはこう訳さないとおかしくなるところもあるが、しかし個人的には昔の訳語「描写」も捨てがたいところではあった。訳者による巻末解説では、訳語統一のため模倣としたとの釈明あり。また作劇論の文脈では、描写という言葉は、結論を言葉で語るのでなく証拠となる場面を直接提示するという意味で使われることが多いため、詩学のこの言葉の訳としては少しずれている面があるのも事実である。
  • 岩波文庫版では「思想」だった「ディアノイア」の訳は「思考」。わかりやすい。
  • 6章の性格についての説明。今回の三浦訳「先に述べた性格の方は、人物の行う選択がどのようなものであるかを示すような要素であるため、語り手が何を好んで選択し、何を嫌って回避するのかという内容を台詞でまったく語らなければ、性格は現れない。」。岩波文庫松本訳は「性格とは、登場人物が(何を)選び、(何を)避けるかが明らかでない場合に、その人物がどのような選択をするかを明らかにするものである。それゆえ、語り手が何を選び、何を避けるかということをまったく含まない科白は性格を持たない。」。なお「登場人物が~明らかでない場合に」の部分は後世の挿入とする説があるとの注記がある。さて三浦訳だが、岩波文庫訳より意味がクリアになった。ここは性格のうち語りとの関連について説明した箇所であるということが明確にされている。
  • 岩波文庫で「単純な(筋)」だったものは「単線的な(ストーリー)」。この訳の方がいい。「複雑な筋」の方はそのままで、これはなかなか難しいところ。「複線的」ではなにか別物のようになってしまうかも。
  • アナグノーリシスは「再認」。比較的一般的な訳。
  • 一般的には「苦難」と訳されてきたパトスは「受難」。これは悪くない。しかし、11章の定義部分の訳は「『受難』とは、破滅的であったり、苦痛に満ちていたりする行為を指す」となっており、岩波文庫版同様「パトスは行為」説を採っている。簡易用語集に書いた通り、私見は反対。
  • 岩波文庫版の「普遍的(筋書)」はそのまま。簡易用語集に書いたように私見ではこれは事件の真相のことを指すが、『詩学』の原文から離れすぎるので、訳本でそう訳すわけにもいかないだろうとは思う。
  • 18章の悲劇の2部構成の前半は「縺れ」。私見では、これは謎が深まっていく過程の部分を指しており、個人的には大正時代の訳「葛藤」を支持したいのだが、作劇の世界での用語「葛藤」は意味がだいぶ違ってしまっているので、今更難しいかもしれない。個人的には、「葛藤」の今の用法は、詩学のこの箇所の誤解に基づくものではないかと思っている。
  • これは翻訳云々の問題でなくむしろ原文の解釈の注意点だが、24章の後件肯定の誤謬の箇所について。ここで説明されている原理は、フィクションにおいて実際にはあり得ない設定を観客・読者に納得させるテクニックの基本であり、作劇上極めて重要な原理であるにも関わらず、この『詩学』以外のテキストではほとんど説明されているのを見かけない。この一節を読むためだけでもこの本を買う価値がある。しかしちょっと分かりづらいのが、足洗いの例示で、これは後件肯定の誤謬の例ではあるが、あり得ない設定を観客に信じさせる例ではない。ここはホメロスからの伝聞で書いた話なのでアリストテレス自身理解が甘かったのかもしれない。

 最後に、カタルシスについて。本書の解説でカタルシスについての訳者の解釈が詳説されており、それによるとカタルシスとは「憐れみと怖れから快を分離する……作用」のこと。この定義だとなんのことやらという感じだが、その他の箇所も参照して当ブログ筆者が解釈するならばこういうことらしい。つまり、悲劇は、観客が憐れみと怖れを味わう不快な経験としての面もあるが、一方でドラマを楽しんでいる快としての面もある。その「快としての面」を不快な面から分離して指す言葉がカタルシスだと。この解釈だと、「ドラマの結末で観客が味わう晴れ晴れとした気持ち」みたいな意味の現代的なカタルシスという言葉とは、全然関係ないということになる。
 確かに『詩学』本文のカタルシスという言葉をそういう意味の言葉に置き換えても意味は通るかも知れない。でもこれだとカタルシスという古代ギリシャ語の単語の意味から離れすぎてはいないだろうか。訳者によればカタルシスに近い単語には分離という意味で使われた用例があるとのことなのだが、分離(による快さ)という意味に解釈してもちょっと苦しい気がする。

 蛇足ながら当ブログ筆者の私見によるカタルシスの定義を再度説明する。まず前提となるドラマの構造として、登場人物には過ちを犯す人とそれにより被害を受ける人がいる。前者は観客と似た人物として描かれ、原則としてストーリーはその視点から語られる。前者は、観客なら犯しそうな過ち(ハマルティア)を犯したがために後者に犠牲(苦難、受難)を強いることになる。これゆえに、観客に憐れみ(罪悪感)と怖れが生じる。以上の展開を前提として、前者が後者から赦しを得るか、後者が窮地を脱するかして(両方の場合もある)、観客が罪悪感から解放されるときの感情が、カタルシスである。赦しを得るのは、言葉で赦すと言われるというパターンよりも、行動で示されることの方が多い。例えば、後者がすべてを知った上であえて自分が犠牲になる行動を選ぶことにより前者を救ったなら、それは前者を赦したことになる。赦さないで恨んでいるならそんな選択はしないからである。
 ただ、古代ギリシャの名作悲劇がすべてこのパターンに当てはまっているかいないかは、筆者の知識ではなんとも言いかねる。