この作品の言わんとするところは何か、再考。
- 主人公たちが預言者の女に半ばスーパーを追い出されるような形になったことが、ラストシーンの悲劇に繋がったと考えるならば、この作品はパニック状態における流言飛語の恐ろしさを描きそのような言説に惑わされないことを求めるものと解することになる。この立場には、他の立場と比較して、物語中盤で話の中心になる弁護士が何のために出てきたのかを説明しやすい利点がある。彼も間違った言説で人々を惑わしたからである。一方で、この立場が成り立つためには、預言者のせいで結末において4人が死んだと言える必要があるが、そのためにはスーパーを追い出されなければ4人が死ななかった(≒スーパーに残された人たちは助かった)と言える必要があるところ、実際の本編の内容からはそれが明らかでないという問題がある。
- 一連の災厄がそもそも軍の秘密実験によって生じたものであることや、預言者の女の予言がほとんど当たっていること、特にラストシーンの悲劇を見事に言い当てている(子どもを犠牲にすることで救いが訪れている)ことを重視するならば、この作品は、彼女が言うように、科学技術の神をも恐れぬ傲慢さを警告し、いけにえを捧げることで罪を悔い改め旧約聖書の教えに従って謙虚に生きることを求めるものと考えることになる。あまりに現代的合理主義の考えから外れすぎるという点をさておくとしても、この立場には次のような大きな問題がある。この作品がフィクションである以上、軍の実験で怪物たちが現れたり、預言者の予言が当たったりというだけでは、作者がそのように作ったからそうなったという以上の意味を持たない。したがってそれだけでは、観客としては、それらは単なる作り事であって、もし自分たちが似たような状況に立たされたとしたら、よほどの偶然がないかぎりこの作品と同じ展開を辿るものとは考えにくく、したがって自分たちの人生においては作品の求めるような行動をとる必要はないと考えることになる。だからこの立場からは、この作品は観客を説得できなかった失敗作と評価せざるを得ないことになってしまうのである。元来、物語は因果関係(どうしてそうなったか)を明らかにすることによって、作中と同様な状況で同様な行動をとったならばなるほど同様の結果が起こるかも知れないと観客に納得させなければならないのであるが、この作品の場合にはその点につきなんの説明もないのである。また、この立場では、最後に軍の科学技術力によって事態が収拾されたことの説明がしにくい。さらに、この立場では、弁護士が何のために出てきたのかについて、『鳥』に出てきたからというメタな視点なくして十分な説明を行うことが困難である。
- 主人公たちが最後に望みを捨てて自ら命を絶ったことが悲劇に繋がったと見るならば、この作品は、希望の大切さを描き望みを最後まで持って努力を続けることを求めるものと解することもできるかも知れない。これはスティーブン・キングの諸作品に共通してみられるモチーフであるという点である種の説得力を持つ。とはいうものの、この立場で説明できるのは結局のところ結末だけであり、物語全体の解釈としては不十分のきらいがある。作中では、努力を続けた人々も次々に死んでいくのである。