『家族』(1970)

 NHK BSPにて鑑賞。山田洋次原作・監督。

  • 脚本面では、基本的に性格描写のためのエピソードをつなげた串ダンゴ型の話で、性格描写は手段であって目的ではないと主張するアリストテレス型ドラマ観とは相容れないプロット。全体を貫く主人公の義務や因果関係(本筋)が希薄なので、全体として物語が何を主張しているかが明確でなく、また結末のつけ方も曖昧である。アリストテレス的ドラマ観に立ってこの話の本筋を解釈すると、父や母が家族を守るべき義務を負っていることを前提に、その目的に反する二人の死が「不幸な結果」(メタバシス)と把握され、それを齎した原因となる人間の行為たる過ち(ハマルティア)が追究されることになる。しかしこのプロットだと、それらはほとんど偶然の産物で、敢えて言うなら乳児や老人を長旅に連れ出したのがいけなかったということになるが、まさかそれがこの話の主張の眼目ではあるまい。しかも主人公の父母はその結果最終的に幸せになっているのである。
  • 一方、アリストテレス型ドラマ観でも、補助的な筋としての性格描写のためのエピソードでは、ある状況において人物がどのような行動を選択するかを描写することが目的となるので、その状況がどのような原因から生じたかは問題とされない。いわば状況はエピソードの前提条件(設定)として理由の説明抜きに天下り式に偶然に与えられる。串ダンゴ型ドラマは、初めから終わりまでこの種のエピソードを次々繰り出すだけで押し通すので、アリストテレス型ドラマ観にいう本筋が脆弱である。
  • この種の構造は喜劇に典型的に見られるもので、喜劇型ドラマと表現してもいいかもしれない。山田洋次が男はつらいよという喜劇を作り続けてきた脚本家であることは偶然の一致ではあるまい。
  • とはいえ、やはり魅力的な人物像が描かれているので、これはこれでありかなと思わされる。実際、典型的な日本のドラマはたいていこういう構造である。ただ、個人的には物語の価値の半分は結末にあると思っていて、やや無理矢理な結末になりがちなこの種の筋にはどうも消化不良を感じてしまうのである。
  • 現代の観客にとってのこの映画の最大の見所は高度成長期の日本の姿だろう。これは興味深く見た。全体的に見て経済的には発展途上だが、地方に今より活気があるようだったのが印象的であった。中標津駅なんて今はもう存在しないのだから。

70点/100点満点

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