映画短評」カテゴリーアーカイブ

『ファーゴ』

 WOWOWにて鑑賞。

  • 全体的に間延びしたシナリオで1時間40分埋めるのに苦労している感じ。冒頭のクレジット通り実話ベースなら仕方ない面もあるが、実際にはそうではないらしいし、これがアカデミー脚本賞というのは過大評価ではないか。連続TVドラマあたりならこの程度でも許されるだろうけれど。
  • その割にそこそこ見れるのは役者とグロの力か。

65点/100点満点

『SUPER8/スーパーエイト』

 WOWOWにて鑑賞。

  • 2011年公開のティーンズ向け夏休み映画。人物配置はどことなく『グーニーズ』(1985)を思い起こさせる。
  • とにかくシナリオがとんでもなく素人くさい。素人のシナリオをハリウッドの一流のスタッフとキャストで映画化したらこうなったという感じの作品。
  • 設定を言葉だけで説明してきちんと描写していない。人物の動機付けがぞんざいである。人物の目標に共感できない。展開に意外性がない。物語の先行きに興味が持てない。結末にカタルシスがない。ないないづくしである。一方で開始20分でプロットポイントとか3幕構成とかといったどうでもいい原則だけはきっちり守っている。ティーンズ向けだからといってこんなのは許されない。
  • エンドロールの8ミリ映画だけはまあまあ。派手な画面づくりなんて面白さにあんまり関係ないということを図らずも本編ともども対比により証明した映画になった。

30点/100点満点

『孤独のグルメ』(TVドラマ)第10話「豊島区東長崎のしょうが焼目玉丼」

  • せっかく「頼んだものをポテトサラダまですべて食べきれるか」という葛藤を作ったのに、いきなりポテトサラダが出てきたらぶちこわしでしょう。最後に出てこないと。陳腐な例だけど、例えば五郎がその前に満腹になっちゃって、最後に出てきたポテトサラダはあの女の子たちに上げることにするとかいう結末にすべき。
  • 会計のシーンの驚き方は不自然。少なくとも個々のメニューが安いことは既に知っていたのだから。
  • 日芸って所沢だけかと思ってたら江古田にもあるんだね。

『孤独のグルメ』(TVドラマ)第8話「神奈川県川崎市八丁畷の一人焼肉」

  • うーん、五郎ちゃんBMWに買い替えたのかあ。ボルボの方がよかったんだけどなあ。
  • やはり川崎は個性の強い街だからか、町並みが絵になる。
  • 例によってシナリオについて。まず、あのアヴァンは意味がない。単なる繰り返しではないか。あまり無理に冒頭で料理を登場させようとしない方がいいようである。
  • あの店を選んだ経緯が説得力に欠ける。とにかく腹が減っていたという以上に大した理由がないのなら、原作がしているように、むしろいきなり焼き肉のシーンまで、それが行き過ぎなら少なくともメニューを開いているシーンまで、ジャンプさせた方がいい。
  • 料理を食べているシーンがシリーズ初めの頃と比べて長くなったように思われるが、それ自体はそれほど不自然ではないようである。ただ、一人であれだけ食べるというのは……五郎が大食いキャラというのが確立しているからいいが。
  • 演出について。まず入店のシーン、黄色い看板を目印に戻ってきたシーンなのだから、その看板をフレームから外してしまったのは明らかな演出ミスである。メニューを見ているシーンでメニューの中身を映さなかったのもよくなかった。
  • これはどちらかといえば脚本理論に属するけれども、物語やドラマは、体験談の形式を持っているから、直接には語り手の行動の理由と結果(の反復)を語っているのである。演出にあたってもこの原則に忠実であるべきである。後の語り手の行動や結果に影響を及ぼさない出来事は省略しなければならないし、影響を及ぼすものや、行動や結果そのものは必ず描写しなければならない。ただし、行動の理由となるもののうち、物語開始時点で語り手は既に知っていたが観客は知らなかったことと、語り手も観客も知らなかったこととでは語り方が異なるが、それはまた別の機会に。
  • ドラマの場合、カメラが手振れすると、そこにカメラマンがいることが否応なく意識されて興ざめである。
  • ロースターの中からのアングルは面白い。
  • 最近ピンボケが減ったようだ。というより明らかなものは全然ない。
  • 焼き肉そのものは旨そうだったが、ちょっと狭いかなあのカウンターは。
  • 五郎ちゃん、箸は分けた方がいいよ。

『白夜行』

 WOWOWにて鑑賞。

  • これもちょっと尺が長すぎる。あまりに話が進まないまま2時間観続けるのはつらい。ミステリだからその間犯人の推理をしておけということなのだろうが、それにしても2時間は長い。
  • また、登場人物が多い上に、時間が経過して成長した姿で出てきたりして、話についていくのもつらい。小説なら地の文に名前が出てくるし前に戻って読み返したりできるからいいが、映画だといろいろ難しい。
  • 話そのものは悪くないので、やはりもう少し尺を……
  • 堀北真希はやはり美人ですね。でも「人の心を操る手段」はもうちょっと具体的に表現して欲しかった。いまどきの日本人女優だとあれが限界か。
  • 一つ指摘しておきたいのだが、当時には3級という資格はなく、「電信級」だったはずである。また、電信級の試験に和文モールスはなかった。もっとも、集会所のOMたちがそれも併せて教え込んだ可能性はある。

70点/100点満点

『孤高のメス』

 WOWOWにて鑑賞。

  • この作品の制作者が誠実に素晴らしい映画を作ろうと努力したことを疑うものではないが、客観的に評価すれば、手術シーンを除き、あまり成功した作品とは言い難い。その意味では、2000年代以降における邦画界の実力の限界を象徴的に示す作品と言えなくもない。
  • まず脚本面での最大の問題は、葛藤がきちんと作れていないことである。だから手術シーン以外のところでは退屈で話が持たない。本来この話は、生体肝移植を成功させて市長を救うことができるかというところで観客を心配させる葛藤を作らなければならないはずなのだが、成功率は五分五分だと形だけ言いはするものの、具体的に何か不安な点が示されるわけでなく、却って当麻が凄腕外科医であることのみが示されているし、またライバル医師たちも手術そのものは妨害する意思を持っていないので、観客が手術が失敗すると心配する要素がほとんど何もない。
  • あるいはまた、当麻が殺人罪に問われるかどうかというところで葛藤を作るつもりなら、むしろ手術はあっさり終えてそのあとの裁判をメインにすべき。しかし実際には裁判どころか手術後刑事すら登場しなかった。ちなみに、殺人罪は親告罪ではないので逮捕に告訴不要なうえ(なお告訴権者はこのケースでは遺族だけだが、移植は母親からの依頼があってすることなので、告訴はほとんどありえない)、予備罪もあるので、手術前の時点で逮捕は可能だった。
  • またそもそも、観客から見て、殺人罪に問われるリスクを冒してまでも市長を助けるべきと思えるような事情がないので、観客が当麻の手術が成功してほしいと強く願うような展開になっていない。極端に言えば、当麻がやりたいから勝手にやってるだけという見方になる。
  • しかしなんといっても、尺が長すぎる。カットできるところが沢山あった。もっと縮めるべき。特にドナー提供者側の話は、制作者の側に思い入れはあったのかもしれないが、ざっくりカットすべきだと思う。一方、市長の娘の描写は薄すぎた。
  • 演出については、概して演技過剰の傾向があった。特に堤真一の演技は少々鼻に付いた。ただ概して女優の方が出来が良かったようである。五郎ちゃんこと松重豊もOK。
  • どうしても気になってしまったのは生瀬勝久のキャスティングである。もはやサラリーマンNEOのイメージが強すぎて、この人の出てくるシーンはコメディにしか見えない。キャスティングにあたっては当然、俳優についているイメージも検討に入れるべきであって、彼をシリアスな役に割り当てたのはミスキャストである。逆に言えば、変なイメージが付いて役者としての活動が制約されるのが嫌なら、無計画にバラエティ番組に出てはいけないのである。なお、柄本明のキャスティングが成功かどうかについてはどうもよくわからない。これでいいような気もするのだが、軽すぎる気もする。
  • 当麻のキャラクターについては、三谷幸喜の傑作TVドラマ『振り返れば奴がいる』の影響を強く受けていると感じた。ただ、このドラマ自体『ブラックジャック』や『白い巨塔』の強い影響を受けているので、どこから拝借してきたのかなんとも言えないところはある。
  • 手術シーンに見ごたえがあることだけは確かである。

60点/100点満点

『孤独のグルメ』(TVドラマ)第7話「武蔵野市吉祥寺喫茶店のナポリタン」

  • 今回のサブタイトルについて。このシリーズのサブタイトルは、原作から一貫して「[地名]の[料理名]」という形式で統一されていたが、今回初めてそのルールから外れた。「武蔵野市吉祥寺喫茶店」という地名はない。原作には第16話に「東京都豊島区池袋のデパート屋上のさぬきうどん」という類例があり、これは原作者としては「デパート屋上のさぬきうどん」というのが食べ物の名前だと考え、それに地名である「東京都豊島区池袋」を「の」で接続したつもりのものであるはずである。この伝でいけば、今回は「喫茶店のナポリタン」が料理名だから、「武蔵野市吉祥寺喫茶店のナポリタン」というサブタイトルであるべきであった。あるいは単に「武蔵野市吉祥寺のナポリタン」でもよかった。わずかな違いとはいえやはり世界観の崩れには違いなく、またあえてそれを崩すだけの必然性があったとも思えない。「の」の連続がうるさいのはわかるが。
  • 脚本家が元に戻ったようである。
  • これは以前の回でも感じたことだが、(たぶんこの脚本家のクセなのだろうけれども、)主人公の決断の前提知識を観客に説明するのが遅すぎることがある。今回で言うと、どのコロッケを買うかという葛藤に対して、遅くとも主人公が両方買うという決断を下す時点までには、主人公が朝飯をまだ食べてなくて腹が減っているというその葛藤と決断の前提となる情報を提示しておかなければならない。さもないと、観客が主人公の立場ならどうするだろうと考える機会を失ってしまう。いや、正確に言えば、一応、いつも並んでいるはずのメンチカツ屋がすいていたからという理由は提示されているのだが、それならメンチカツがないとわかった時点でなにも買わないという決断になるはずであり、何でなおコロッケを買うのかさっぱりわからないのである。
  • たぶんそんなことはないと思うが、もし万が一、五郎がなぜコロッケを買うことにしたのかをミステリー仕立てで進行させ、ジャズ喫茶のシーンで種明かしをするという構成にしたかったなら、(1)その間は五郎の語りは入れない (2)行列ができていたという下りはカットする 必要がある。
  • ジャズ喫茶といえば、うじきつよしはジャズ喫茶の店主より隣でナポリタン食べてたおじさん役の方がよかったんじゃなかろうか。
  • 料理をなるべく早く登場させるという方針は、どうも脚本家にとって重荷になっているように見える。ドラマの構成はそれぞれの脚本家が独自のスタイルを持っていて、一部だけいじることなどできるものではないのだろう。
  • またこれも以前の回でも感じたことだが、五郎の語りとして「なんかいいなあ」なんていう中身のないことしか言えないなら、むしろそんなセリフはなしにして、ト書きに「えもいわれぬノスタルジックな雰囲気の店々の並ぶ一角を五郎が歩いていく。」とでも書いておくだけにして、あとは演出と役者に任せた方が良い。
  • 喫茶店で店員が外を見ているのを五郎が不思議に思うシーン、遅くとも五郎が不思議に思う時点までには、観客に「あの店員、なんで外見てるんだろう」と思わせるように仕組んでおかないとダメ。今回のシナリオだと、むしろ「五郎はなんでそんなどうでもいいことを気にするんだろう。脚本家の都合かな?」と思わせてしまっている。
  • 喫茶店で注文が他人と被ったから別の料理を頼むというのは五郎らしくない。どちらかというと他人に合わせるキャラのはずである。原作の廻転寿司、鰻丼、シュウマイ、おまかせ定食のエピソードなど参照。
  • 相変わらず料理は旨そう。松重豊の料理を前にしたときの表情は素で喜んでいるように見える。

『孤独のグルメ』(TVドラマ)第6話「中野区鷺宮のロースにんにく焼き」

  • 今回の脚本はシリーズ最悪。脚本家が変わったらしいが先が思いやられる。もうドラマパートは飛ばして久住氏のとこだけ見ようかな。
  • この記事で久住氏がもっと早く食べるシーンを入れろと言っているけど、それ自体はもっともにしても、今回は全然成功してない。

『孤独のグルメ』(TVドラマ)第5話「杉並区永福の親子丼と焼うどん」

  • 相変わらず、店についてはよくこんなとこみつけたなと思うし、B級の料理も旨そうである。
  • 演出は、前回と比べるとやや持ち直した感あり。ただやっぱりピントが甘い場合がある。もうこれはたぶん演出っていうより単純に合わせそこなってるんだな。
  • ここまで4話ほど見てきたが、やっぱりこのシリーズは、半分は松重豊の演技力で持っているようなものだと確信。
  • 脚本について。この作品はデッドパンな喜劇としての側面を持っていて、特にこのTVシリーズでは、原作と比べてその側面を強調する方針のように見えるのだが、残念ながらどうも滑稽味が上手く出ていないようである。今回の話でも、釣り堀の男性をピエロ役にしようとしているようなのだが、あまり笑えなかった。
  • 滑稽味が何に由来するかというのは作劇理論における一大問題だが、少なくとも、笑われるべき人が、単に何か面目を失ったりひどい目にあったりといった損害を被ればいいというだけのことでないというのは確かである。おそらく、そういう結果も必要なのだが、そのほかに、それが本人の見込み違いの決断に基づく行為から生じたという因果関係も必要なのではないだろうか。そしてまた、それだけでなく、その決断が、一つの選択肢としてあり得なくはないものの、しかし観客ならば実際にはそのような選択肢は選ばないと思えるようなものである必要もあるものと思われる。一般に喜劇を書くのが難しいのは、おそらくこの「あり得なくはないが自分ならしない」という条件が非常に狭く厳しいためだろう。そしておそらく、自分ならしないのにあり得なくはないと思う場合というのは、「そういう人っているよね」と思えるような場合である。原作はこのあたりが上手かったのである。
  • なお、失敗をもたらすような行為が、自分だったとしてもそうしたと思えるように描写されたならそれはシリアスドラマである。自分だったとしたらそうはしなかっただろうし、そもそもそんな選択をする人がいるとは思えないということなら、それはもはやドラマではない。また、そのような行為からそのような失敗が生じるとは思えないときもやはりそれはドラマの体をなしていない。今回の話は2番目のケースに近いが、そもそもなんのつもりで釣り堀の男性がああいうことを言っていたのか自体がわかりづらかった。
  • また細かいことだが、冒頭のフラッシュバックは、それが前日のことであるということが少しわかりづらかった。今回のケースでは、フラッシュバックの冒頭に

    五郎の声「俺は昨日、1週間前に注文をもらっていたあるクライアントに呼び出された」

    などと一言説明を入れておくとわかりやすくなったはずである。

  • ところで、このTVシリーズとは関係ないのだが、NHK BS1(本来は、NHK WORLD)にて放送中のTOKYO EYEで、赤羽と十条が今週のテーマとなり、あのまるます家が取り上げられていた。残念ながら最近Webの方には過去分の動画をアップロードしてくれなくなったようなのだが、再放送もあるようなので興味のある方は是非。外国人向けの英語放送だが、英語は比較的易しいので、英語を勉強中の日本人にもおすすめの番組である。でも、一応東京出身のはずの司会のクリス・ペプラーの英語が一番聞き取りにくいのはどうしたわけだろう。