映画短評」カテゴリーアーカイブ

『野生の証明』(1978)


 BS-TBSにて鑑賞。ひょっとすると多少カットされてるかも。

  • 福島の寒村で一人の娘を除いて村人全員が惨殺される事件が発生、真相やいかに、という森村誠一の推理小説の映画化。高倉健主演。原作小説はおそらく『ひぐらしのなく頃に』の元ネタの一つで(ネット上では一部で以前から指摘されている)、同作の終盤の展開に強く影響を与えたと見られる。しかし、この映画化作品の方は終盤がマトモな構成になっておらず、中盤まであれこれ複雑な事情を披露していたのにそれをすべてブン投げてアクションシーンに突入し、真相があまりはっきりしないまま終わってしまう。
  • とはいうものの、飛ぶ鳥落とす勢いだった角川映画の第三作目ということで、日本映画としてはカネのかかり具合に目を見張るものがある。高倉健をはじめとする俳優陣もリッチだし、薬師丸ひろ子も可愛いしで、それなりに見ごたえはある作品。大野雄二の音楽もいい。

『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(1996)


 dTV(先日「dビデオ」から改称した)にて鑑賞。

  • FBIから強盗殺人犯として指名手配され逃亡中のある兄弟が、途中のモーテルで出会った元牧師の一家を脅し、一家のキャンピングカーに隠れてメキシコへ密入国しようと目論む。紆余曲折の末、彼らはメキシコへの入国に成功し、メキシコでの逃亡生活の面倒を見てくれる仲間と待ち合わせているあるストリップバーへ到着する。ところがそこは吸血鬼たちが人間の生き血を啜るために作ったワナだった。吸血鬼たちに襲われ倒れていく人間たち。吸血鬼に噛みつかれた人間は吸血鬼となって復活する。吸血鬼はいくら殺してもしばらくすると復活してくるが、心臓を杭などで打ち抜くと炎を上げて消滅する。さらに、店の外にはコウモリ人間が大勢いて彼らも人間を襲おうとする。吸血鬼もコウモリも、十字架と日の光が弱点だ。果たして主人公らは朝まで生き延びることができるのか。
  • タランティーノが脚本を書いたことで知られる作品。話の前半まで準主役で出演もしている。監督はタランティーノの弟子?でB級映画監督のロバート・ロドリゲス。メキシコへの逃亡を描いた前半はいつものタランティーノ節でまずまずの出来なのだが、後半、スプラッターものに急展開するところからC級映画としか言いようがない品質になる。
  • 特に出来の悪いスプラッター冒頭のシークエンスについて言うと、致命的だったのは、ここは店員たちが吸血鬼だったということを観客に明かす部分のはずなのに、ただ怪物みたいな姿に変身して人間を殺すだけであまり血を吸っているように見えないし、殺されても甦って来るので、吸血鬼というよりゾンビかなにかみたいに見えたことである。ゾンビも吸血鬼も似たようなものではないかと思うかもしれないが、ここでほかならぬ吸血鬼であるということがわからないと、そもそもなぜ踊り子がここで急にリッチーを襲おうとしたのか(答: リッチーの手から流れる血を見て我慢できなくなったから)、その直後に店員たちがなぜ一斉にほかの客まで襲いだしたのか(答: もともとこの店は吸血鬼の店員たちが人間の血を吸うために作った店だから)、なぜケイトが十字架を押し付けて対抗したのか(答: 吸血鬼は十字架が苦手だから)、なぜフロストが店員たちを机の脚を使って串刺しにしたのか(答: 吸血鬼は心臓に杭を打ち込むと死ぬから)といった様々な人物の行動の意図が理解できなくなるのである。そして実際ほとんどの初見の観客はそれらが理解できず、兄弟と争っていたはずの店員たちがなぜか急に客たちを襲い始めたと思ったら登場人物たちが意味不明な行動を取り続けるシーンが延々続く、というように見えたはずである。吸血鬼であることをぎりぎりまで隠しておきたかったのだろうが、前フリ不足である。
     逆に言うと、この映画には吸血鬼が出てくるという予備知識を持って観た観客や、2度目以降の観客にとってなら、いくらか評価が変わってくるかもしれない。世の中にはネタバレされてから見た方がいい映画もあるということか。
  • こういう作品をたまに見ると、あれこれ難点はありつつも普段観ていた映画がそれなりによく出来ていたんだということが認識できる。それがこういうC級映画の存在意義だろう。

20点/100点満点

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』【ネタバレ】

  • 本日封切。アカデミー脚本賞・作品賞・監督賞等受賞作。
  • 主人公リーガンは、20年前のアクション映画『バードマン』シリーズで主役を務め人気者になったことがあったが、今や売れない中年俳優である。彼は財産をはたいてブロードウェイの舞台をプロデュースし、自ら脚色主演を務めて本格派俳優として復活を図ろうとする。だが試演公演を終えてみると、注目されるのは準主役を務めた今が旬の人気俳優マイクのことばかり。マイクは傲慢な男で、舞台の上でも外でも好き勝手をし、リーガンの娘で今は付き人をしているエマにも手を出す。しかし経済的にも後がないリーガンはマイクをクビにすることもできない。一方、ブロードウェイ興行の成否は批評家のレビュー次第と、リーガンはマイクの助けを得てNYタイムズの著名批評家タビサにアプローチするが、彼女は低俗なアクション映画俳優の舞台など嫌いだと言い、舞台を見もしないうちから酷評することに決めていると言い放つ。さらに、エマには今どきの俳優はネットで話題になるような派手なスキャンダルが必要だが、そのことをわかっていないとなじられる。あれやこれやでリーガンは自信を失い、やはり自分はアクション映画しかできない俳優なのだろうかと迷う。試演公演の最終日、リーガンはふとしたことから公演中に劇場から締め出されてしまい、裸でブロードウェイの通りを駆けて劇場に戻るが、その様子を映した動画がネットで話題になり、翌日の初日公演は大入り満員となる。その初日の劇のラスト、主人公が拳銃自殺するシーンで、リーガンは本物の拳銃を使って自殺を図る。だがそれは観客に大いに受けた。リーガンは病院に運ばれ、辛うじて一命を取り留める。だがそこで目にしたNYタイムズのレビューはやはり酷評。「無知にも意外な長所がある(The Unexpected Virtue of Ignorance)」との見出しで、演劇を何も知らぬ俳優がまぐれ当たりしたと皮肉るものだった。リーガンは病室から投身自殺する。
  • とにかくわかりづらいシナリオで、実際何が起こっているのか、何が言いたいのか、特に終盤において明らかでない点が多い。上記ストーリーは筆者の解釈によるもの。監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥが共同脚本としてクレジットされているが、内容を見る限り、脚本の中身を理解せずに演出したか、あるいは内容が内容だけにわざとわかりづらくしたのか、とにかく悲劇的な脚本に見合っていないどこかあっけらかんとした演出になっていて、それがわかりづらさを増している。おそらく話の趣旨は、ドラマ作品に対する批評家や大衆の態度を批判するものなのだと思うが、とにかく見終わったときそれに共感しリーガンに同情するような構造になっていないわけで、シナリオの出来という面から言えばやはり失敗作だろう。また作品の趣旨について言えば、作品をリスクを冒して一生懸命作ったんだからソコを評価してよというのは気持ちはわかるが、それを客に向かって言うのは無意味であり、やはりプロ意識に欠ける主張というしかない。
  • 役者の芝居は悪くないし、ワンシーンワンカット風の映像やカッコいい音楽は一度鑑賞してみる価値ありとは思う。

60点/100点満点

『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 舞台は1932年、東欧にある名門ホテル、グランド・ブダペスト・ホテル。そのコンシェルジュ、グスタヴは、裕福な侯爵夫人の未亡人マダム・Dのお気に入りの愛人だった。ある時マダム・Dが亡くなり、グスタヴは遺言により高価な絵画『リンゴを持つ少年』の遺贈を受けることになる。マダム・Dの財産の大半を相続することが見込まれる息子ドミトリーは、グスタヴへの遺贈に憤慨してそれを妨害しようとするが、グスタヴはマダム・Dの館からその絵画を黙って持ち帰り、ホテルの金庫に保管する。だがその直後ホテルにやってきた警察により、彼はマダム・Dの殺人の疑いで逮捕されてしまう。どうやら館の執事セルジュ・Xが誰かに脅されて嘘の目撃証言をしたためらしいが、彼はその後行方不明で問いただすこともできない。無実の罪で収監されたグスタヴだが、やがて監獄の仲間と共に脱獄に成功し、ホテルマンたちの人脈を駆使してセルジュ・Xを探し始める。一方、何者かに雇われた殺し屋ジョプリングは、相続書類に不審な点があるのに気付いた遺言執行人のコヴァックスや、証言が嘘であることを認めたセルジュ・Xを殺す。結局グスタヴは、弟子のゼロとその恋人アガサの助けを借りて、ホテルの金庫にある絵画を取り戻して逃走しようとするが、そこへ偶然ドミトリーがやってきて、絵を巡っての銃撃戦となる。駆けつけた警察が関係者全員を拘束して調査した結果、ドミトリーがすべての黒幕であったことがわかり、グスタヴの疑いは晴れる。さらに絵画に隠されていた新たな遺言状により、グスタヴがマダム・Dのすべての財産を相続することになる。
  • 『ダージリン急行』(2007)のウェス・アンダーソン監督・脚本・製作作。絵本のような漫画のような独特の絵作りが目を惹く作品で、アカデミー賞の美術系を含む4部門で受賞。とにかく映像だけでも見ておく価値はある。
  • 一方、脚本面ではあまり出来がいいと思われない。語りが3重になっている若干技巧的な構成なのだが(そのことにあまり必然性を感じない)、メインプロットは上述のあらすじの通り、ミステリーを狙ったと思われる内容である。しかし、話の中に怪しい人間は最初からドミトリー一人しか出て来ないのだから、謎も何もあったものでない。その点で失敗作と言うほかないと思う。ただキャラクターは個性的だし、上のあらすじでは説明しなかったが、最後にグスタヴが死んで寂しさを感じさせる終わり方になっていて、見終わった後の感じは悪くない。それが評価されたのか英国アカデミー賞などでは脚本賞を取ったようだ。個人的には、それも少々評価し過ぎのようにも思われたが。

65点/100点満点

『アメリカン・ビューティー』(1999)

 WOWOWにて鑑賞。
 一応当年のアカデミー作品賞・脚本賞等を獲得した作品なのだそうだが、この年はアメリカ映画が不作の年(とはいえ、『マトリックス』第一作と『スターウォーズ エピソード1』がヒットしたのはこの年)。実際のところ、なんだか出来の悪いコメディーを間違ってシリアスに演出しちゃったという感じの話。どうなんだこれは。

50点/100点満点

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013)

 WOWOWにて鑑賞。
 ウォール街の新興証券会社の創立者ジョーダン・ベルフォートの、栄光と堕落と転落の人生を記した回顧録を元にした作品。マーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ主演。

 3時間近くある作品なのだが、とにかく前半が退屈。急成長した会社内部で繰り広げられるスキャンダラスな乱痴気騒ぎのエピソードが次々に描写されるにも関わらず、どうしてこうなってしまうのかというと、いつも言っているように、主人公を動かすような脅威がない、そしてそれを避けるための決断がない、つまり葛藤がないから。主人公はこれで行くことにしたらしいけれど、さてそれでうまくいくのかな、というのを確かめたくて観客は話の続きを見るのだが、この話の前半にはそれがない。後半に入ると警察をどうやり過ごすかという問題が出て来てやっと面白くなりはじめるが、ちょっと遅すぎた。率直に言って、この半分の尺で十分な話。一応コメディ路線も狙った作品らしいのだが、大して笑えるわけでなく、その面でも失敗。

60点/100点満点

『招かれざる客』(1967)

 WOWOWにて鑑賞。

  • まだ白人と黒人の結婚が違法の州も存在していた時代のアメリカが舞台。一人娘を持つ白人の老いた父マット・ドレイトンが主人公。ある朝、娘のジョーイがマットの家に見知らぬ黒人青年ジョン・プレンティスを連れて来て、彼と結婚するつもりだと言いだす。突然それを聞かされたマットは妻のクリスティーナともども茫然とする。娘には肌の色で人を差別してはいけないと教えて育ててきたものの、実際問題、黒人と結婚するとなれば二人が苦労することは目に見えている。だが、純粋な娘は両親がこの結婚を祝福してくれるものと信じ切っている様子だ。ジョンに話を聞くと、この結婚が困難なものになりうることは理解しているので、ご両親に賛成してもらえないなら諦めるが、この後すぐにスイスに赴任しなければならないため、今日の夕食までの間に結論を出してほしいと言う。あまりに急な話にマットは混乱する。妻クリスティーナは娘が彼を愛しているならと賛成するようだが、マットはなかなか答えを出せない。悩んだ末、マットはやはりこの結婚には反対すると心を決めるのだが……
  • 名優スペンサー・トレイシー(『カールじいさんの空飛ぶ家』の主人公カールじいさんのモデルで、特に本作では顔がそっくり)の遺作にして、アカデミー脚本賞受賞作。スペンサー・トレイシーとその妻役キャサリーン・ヘプバーンのコンビの安定感ある名演技は一見の価値がある。脚本はシーン数の少ない演劇的なシナリオで、話の中身は良くも悪くもウェルメイドな感じ。ただ、出てくる登場人物が皆誠実で魅力的であり、安心して家族で見られるハートフルストーリーの佳作に仕上がっている。アメリカ映画界にもこんなドラマが作れた時代があったのだ。
  • このプロットが良くも悪くもウェルメイドだというのは、人物の魅力のほかには、主に主人公の葛藤がしっかりしているところに原因がある。自らの信条からも娘の期待には応えてやりたいが、娘が結婚生活で苦労するようなことも避けたい。そういう葛藤がドラマの早い段階で明確に描写されるので、この話で何が問題になっているのか観客が容易に理解できる。それがいいところである。
    一方で、この葛藤は二つの望みがあまりにガッチリと相反し合っていて、妥協なしには解決が不可能である。それがこのシナリオの最大の問題である。本作を鑑賞中の観客が望むことは、わざと黒人差別がどぎつく表現されないこともあって、どちらかと言えば主人公が結婚に賛成することだと言えようが、仮にそうしたとすると二人は結婚生活において困難に直面するわけであり、それが果たして本当に望ましいことなのか確信が持てないはずである。したがって、観客の話の先行きに対する望み・期待は弱いものになってしまう。この作品の実際の結末では、結局主人公が結婚を認めたが、二人の困難な結婚生活という問題は解決されないままなので、見事な解決になっているとまでいい難い。
  • 一般に、ドラマの葛藤には、相反する複数の望みがすべて叶えられる余地を残しておくべきである。そしてできれば、結末ではそれを実現させるべきである。あるいはそれができないにしても、その余地がある期間をなるべく引き延ばすべきである。もっとも、すべて叶えられる可能性があるなら相反しているとは言えないわけで、正確には相反しないで済む余地を残しておくべきだというべきか。
    例えば、『ひぐらしのなく頃に』の第一話「鬼隠し編」における葛藤は、主人公圭一に親切にしてくれたために殺されたのかも知れない富竹の仇は討ってやりたいが、さりとて圭一を愛してくれるレナを犯人として告発するような状況に陥りたくもないというものであった。しかし客観的にはレナが犯人である可能性が否定もできない状況でもあった。もしレナが犯人なら、彼女を告発するなりして仇を討つか、あるいはそれを見逃して仇を討つのは諦めるかの択一であり、両方の望みが叶えられることはあり得ないことになる。しかし、レナ以外に犯人がいる余地も残っているから、ほとんどの読者は、この二つの望みを両立させるために、登場人物(この話ではそれが可能なのは主に主人公圭一だが、大石という線もある)がなんとかレナ以外の犯人を捜しだすことを望んだはずである。
    なお、これが、この話で読者がフーダニットに関心を抱く理由となる。殺人事件が起こっただけでは読者はそれに関心を抱いたりしない。祟りかもしれないというだけで読者がそれに関心を抱いたりもしない。
    ただしこの話で圭一は、実際にはその読者の望みとは少しずれた行動を取る。圭一自身が狙われているらしいというのでまず身を守ろうとするのである。このサスペンスは一つには圭一が問題を放置するという選択ができないようにするための作劇上の工夫だが、とにかく圭一が死んでしまっては犯人捜しは難航するから、結局読者もそれを支持する。しかしその結果として、逆にレナが犯人である可能性が高まっていく。クライマックスで圭一はレナが犯人と確信して彼女を殺してしまうが、これは葛藤を消滅させる出来事ではあるものの、葛藤の両方の望みが叶えられたことにならないから、もしこのまま話が終わっていたら名作とは呼ばれなかったろう(もっとも、アリストテレスなら悲劇の終りはこれでいいのだと言うのかもしれないが)。しかし後にシリーズ全体の結末で、読者のこの二つの望みは叶えられることになる。
  • 概していえば、葛藤の根本原因が社会問題にあるような社会派の作品の場合、すべての望みを叶えるような解決が困難になることが多い。『招かれざる客』に話を戻すと、本作もそのパターンである。黒人差別は社会の側の問題であって、登場人物たちの一存でどうにかなるものではない。敢えて妥協を避けたいなら、前提の認識そのものに勘違いがあったという方向性も考えられるが、実のところそれでは両方叶えられたというより両方叶えられなかったといった方が正確で、なお悪いようでもある。例えば黒人青年ジョンが実は結婚詐欺師だったなどということにすれば、それを知ったジョーイも結婚したいとは言わなくなるはずだが、そんな結末では観客としても納得がいかないのではなかろうか。
    こういう場合は、むしろ無理に葛藤を解決しようとするよりも、結婚を諦めるとか、あるいは結婚したけれどあまりにつらくて離婚するとかというようなアリストテレス翁好みの悲劇的な結末にしておいて、黒人差別の問題性を観客に訴えるというやり方の方がふさわしいかも知れない。そうするとハートフルストーリーとはとても言えなくなるが……

75点/100点満点

『清須会議』(2013)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 織田信長が本能寺の変で死んだとき、信長の後継者とされていた信忠も死んだだめ、事態がひとまず落ち着いた後、家臣団が清須城に集まって誰が織田家を継ぐべきかを決めることになった。これが清須会議。本作は、この史実に基づいた三谷幸喜脚本・監督の時代もの映画。
  • 清須会議では、いずれも有力な家臣である羽柴秀吉と柴田勝家とが、それぞれ自陣に都合のいい別の織田家の人間を後継者として推すことになる。そこで結局どちらに決まるのかというのが、一応話の葛藤になってはいる。なってはいるが、観客の立場からは、その結果にあまり興味を持てないというのが正直なところである。これは、観客が秀吉側又は勝家側を応援する理由が特にないからである。秀吉も勝家も結局自分の都合で動いているのでしかないからである。そしてまた、誰が後継者になろうが、結局その後天下を取るのがその人物でなく秀吉であることは日本人なら誰でも知っているからである。
  • 三谷幸喜は人間関係の描写は上手いけれど、筋を作るのはかなり下手。初期の作品は大体元ネタ作品があって大筋それに忠実に作っていたようなのでよかったけれど、最近のように史実を元にしてシナリオを書くようになってからは、史実というものが必ずしもドラマチックでないことから、あまり筋の出来が良くないものが増えたように思われる。本作もその傾向の例外ではないようである。

50点/100点満点

『ゾディアック』(2007)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 1968年から74年にかけてカリフォルニアで発生した連続殺人事件で、『ダーティーハリー』(1971)のモデルにもなった「ゾディアック事件」を題材にした話。現在も未解決ながら、ある漫画家がこの事件を詳しく調査して一冊の本にまとめたのだが、その調査の過程を描いたもの。
  • 調査することそのものを主人公の動機にしてしまったものだからドラマになってない。画面上で主人公が熱意をもって行動していることと、実際には何の関係もない人間が本を書くために調査しているにすぎないという事実とが不釣合いで、主人公の演技が不自然に見える。
    冒頭に「これは実話である」と出てくる映画にろくなものはないという法則の実例がまた一つ増えた。

『伝説巨神イデオン 接触篇』『伝説巨神イデオン 発動篇』(1982)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 西暦2300年代の遠い未来が舞台。人類は地球の植民星ソロ星で第六文明人の遺跡に残された宇宙船ソロシップとロボットイデオンを調査していた。そこへ無限の力「イデ」の手がかりを求めて別種の人類バック・フランの軍がやってきて、地球人類との間で偶発的な戦闘となる。結局ソロ星はバック・フランによって壊滅させられるが、その過程で遺跡のソロシップとイデオンが動き出し、地球人類はそれに乗って脱出する。そのとき、ひょんなことからバック・フランの高官の娘カララがソロシップに紛れ込んでいたことと、バック・フラン軍がイデオンを手に入れたいと望んだことから、ソロシップ一同はバック・フラン軍に執拗に追われることになる。地球に戻ってもバック・フランに追われているために危険すぎると受け入れを拒否されるソロシップの一同。やむなくバック・フランと戦いつつ追われつつの日々を過ごすうち、ソロシップとイデオンは無限の力「イデ」で動いていること、それ自体が意思をもちソロシップにいる乳児を守るために行動しているらしいことがわかってくる。そしてまた、イデは地球やバック・フランの母星に隕石を降らせて滅ぼそうとしているらしいこともわかる。紆余曲折の末、イデオンとバック・フランは最終決戦に臨み、バック・フランの最終兵器ガンド・ロワと相打ちになるような形で両軍とも消滅。相前後して地球とバック・フランの母星も滅亡する。両陣営の人類たちは星になり、カララが身ごもっていた両人類の混血児である新生児メシアに導かれて新惑星に集結、新しい人類として生まれ変わるのだった。
  • 『機動戦士ガンダム』の富野喜幸がガンダムの直後に制作したものの、未完のような形に終わっていたTVアニメシリーズの劇場版。接触篇はTVシリーズの総集編、発動篇は完結編の位置づけ。当時の人気はいまひとつだったようだが、今となっては『新世紀エヴァンゲリオン』の元ネタの一つとして有名な作品。本作品自体は『禁断の惑星』(1956)やアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』に影響を受けているとみられる。
  • 富野自身も問題を認めているようだが、とにかく全部合わせて3時間強しかないので、TVシリーズなしに鑑賞するとストーリーについていきづらい。場面場面で何が問題になっているのか細かいところがわからない。人間関係の描写も薄いので、主要人物全員死亡という悲劇的結末の割に感慨が薄い。そもそも第六文明人って何。全然関係ない二つの星の人類がほとんどそっくりで生殖可能なのはどうして。しかしとにかく、いろいろエヴァに似ていることだけはよくわかった。