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アリストテレスは三幕構成を主張したか

 ハリウッドの世界だともうシナリオは三幕構成というのが金科玉条のごとく守られているようなイメージがあります。で、シド・フィールドあたりのハリウッド系のシナリオテキストを見ると、しばしばこの三幕構成はアリストテレスも主張してることだみたいなことが書かれていたりします。
 しかしこれは本当でしょうか。確かにアリストテレスは悲劇は「始め」「中間」「終わり」の3要素を持ってないとダメだという趣旨のことを述べてはいるのですけれど、これらがそれぞれ幕を構成するなどとは言っていません。

 すでにわたしたちは、悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した一つの全体としての行為の再現である、と定義した。
(中略)
 全体とは、初めと中間と終わりをもつものである。初めとは、それ自身は必ず他のもののあとにあるものではないが、そのあとには本来他のものがあったり生じたりするところのものである。反対に、終わりとは、本来それ自身は必ず、あるいはたいてい、他のもののあとにあるものだが、そのあとには何もほかにないところのものである。また中間とは、本来それ自身も他のもののあとにあり、それのあとにも他のものがあるところのものである。
 それゆえ、巧みに組み立てられた筋は、勝手なところからはじまることも、勝手なところで終わることも許されず、いまあげた形式(初め、中間、終わり)を守らなければならない。
(アリストテレス著『詩学』(松本仁助・岡道男訳)7章)

 これが原文です。アリストテレスの著書の例に漏れずなにか禅問答のようでもありますが、「幕」もしくはそれと同等の言葉はまったく出てきていません。ではこれらは何を意味しているのかというと、私見によれば今日にいうところの「原因」「因果関係」「結果」のことを言っているのだと思われます(ご興味のある方は、アリストテレスのこうした言葉遣いについて『形而上学』の2巻2章もご覧ください)。
 なお、これは有名な「三単一の法則」のうちもっとも本質的とされる「行為の単一」の元になった記述でもあります(もっとも、この後の8章の方でも大きく取り扱われていますが)。

 ところで実はアリストテレスは別のところで悲劇の構成について触れているのです。

すべての悲劇には、出来事の結び合わせの部分と、解決(解きほぐし)の部分がある。劇の外におかれていることがらと、多くの場合、劇のなかで起こることがらの若干のものが、結び合わせの部分であり、残りは解決の部分である。わたしのいう結び合わせとは、始まりから運がよいほうへ、または悪いほうへ転じる直前のところまでのことであり、解決とは、この変転の始まったところから結末までのことである。
(前掲書18章)

 これを読めば、実際にはアリストテレスは2部構成を主張していたことがわかるでしょう。

ボルト

 WOWOWにて鑑賞(吹き替え版)。
 いや相変わらずディズニーの完成度は素晴らしい。アクションシークエンスの映像の出来がいいし、CGの犬がちゃんとかわいらしく描けてたのもいいんですが、やはりなんといってもシナリオがよくまとまっています。特にあのマネージャーのセリフ。あれはなかなか書けませんよ。
 ただ、中盤少し必然性なく話を引き伸ばしているような感じはしましたね。これは近時のディズニーのアニメ全般に見られる傾向で、アニメはもともと分量の割に尺が短くなりがちだそうですし、(たぶん子供向けを意識しているからでしょうが)主要人物の数も少ないので、1時間40分埋めようとするとどうしてもそうなるんでしょう。
 また作品のテーゼと見られるものをハムスターがセリフで演説してましたが、そういうやり方だとどうしても臭くなります。それにラストとそのテーゼとの関連が希薄だったような。特にリタイアの決断は母親でなくペニー自身にさせるべきじゃないでしょうか。流れ的に母親にさせた方が自然なのはわかりますが。

評価: 80点/100点満点

二重の筋

 アリストテレスは『詩学』の13章で、二重の筋、つまりある人には幸福がもたらされ別のある人には不幸がもたらされるような悲劇を否定し、単一の筋、つまり主人公が不幸になるだけの話でなければならないとしていますけれども、これは正しいでしょうか。どうも私には疑問に思われます。
 アリストテレス自身も名を挙げている『オイディプス王』を例にとると分かり易いと思うのですが、この話では、それとは知らず主人公オイディプス王は自らの母親と結婚して子を儲けてしまい、それが原因で自らの統治するテバイに(神の怒りを買って?)災いを呼んでしまったということで、結末で自らテバイを出て行くことになります。
 確かにこの話では主人公オイディプス王自身は不幸になってます。しかし同時に、災いの原因たるオイディプス王がテバイを出て行くことで、テバイの民は幸福になっているのではないでしょうか。これはまさに二重の筋そのものではないですか。
 要するに悲劇というのは、観客から見た場合、主人公が我々のためになることをしてくれたのに報われることがなくてかわいそう、ということでなければならないわけですから、その意味で自然に二重の筋になってしまうはずなのです。
 いや、アリストテレスの言っているのは悪人と善人が出てくるようなタイプの話なのだ、と限定的に捉えることでアリストテレス理論を救済することは確かに可能ですが、それにしても言っていることが紛らわしいという批判は可能なように思われます。

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恐れとあわれみ

 レッシングはアリストテレスの悲劇の定義(の一部)の「恐れとあわれみ」を「恐れと不安」に読み替えていますけど(参考: 以前のエントリ)、最近やっぱりこの読み替えはちょっと違うんじゃないかという気がしてきました。
 つまりレッシングは自分にも同様の苦難が降りかかる可能性こそが観客にとって悲劇が他人事でなくなる原因の唯一の本質だと考えているようなんですけど、それはそれで一種のホラー型ストーリーにおいてありうるとして、あわれみのほうはもう少し他人の行為についての倫理感と関係したそれとは別のストーリー形態について言っているような気がするのですね。

同情と共感

同情 (pity)

 憐れみ。苦しんでいる他人をかわいそうだと思うこと。「憐れみとは、そのはずのない人が破滅につながるような、または苦痛に満ちた不幸に見舞われているのを目にしたときに感じられる一種の苦痛で、ただその不幸が、自分自身か身内の誰かもひょっとして見舞われるかも知れないと予想されるようなものであって、それも近い内に見舞われそうに思われる場合に限られる」(『弁論術』アリストテレス著、戸塚七郎訳)。
 結果が認識ないし予見されて始めて同情が生じることに注意。

共感 (empathy)

 同感。共鳴。賛成。感情移入。「他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること」(大辞林)。

両者の関係

 共感はある状況における対処行動の選択が一致することであるのに対し、同情はその前提としての欲求が一致することである。

アリストテレスさんのお勧めする悲劇のストーリー

  1. 幸福に暮らしている人が
  2. 相手をよく知らないで行為したために
  3. 結果的に家族や親友を殺そうとすることになり
    1. 直前にそのことを知って思いとどまるか
    2. 殺してしまった後にそのことを知る。

 こうまとめてみると随分シンプルですね。これにきっちり当てはまる悲劇ってのもそう多くはないような……

アリストテレスのいう性格の定義

Twitter / hiroki azuma: そういえばいつか使おうと思っていたネタなのだが、この …

 この考え自体は作劇の世界では比較的一般的ですが(ただ、「選択」より「行動」「アクション」ということが多い)、アリストテレスの見解はある意味これと逆さまで、選択(行動)の結果性格が表わされるというより、性格(と思想)の結果として選択(行動)が生じるという考えです。

 性格についてのアリストテレスの定義は次の通り。

性格とは、登場人物が(何を)選び、(何を)避けるかが明らかでない場合に、その人物がどのような選択をするかを明らかにするものである。それゆえ、語り手が何を選び、何を避けるかということをまったく含まない科白は性格をもたない。

 定義らしきものはもう一カ所にもあります。

性格とは、行為する人々がどのような性質をもっているかをわたしたちがいうときの基準となるものである。

 前者の定義の「それゆえ……科白は性格をもたない。」のところは、行為で性格を表わすというように読めなくもないのですが、次のような記述もあります。

行為にはおのずから思想と性格という二つの原因がある

幸福も不幸も行為に基づくものである。そして(人生の)目的は、なんらかの行為であって、性質ではない。人々は、たしかに性格によってその性質が決定されるが、幸福であるかその反対であるかは、行為によって決定される。それゆえ、(劇のなかの)人物は性格を再現するために行為するのではなく、行為を再現するために性格もあわせてとりいれる。

 以上、松本仁助・岡道夫訳『詩学』第6章より。
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 なお、「選択」ということの定義は『ニコマコス倫理学』のほうにあります。
 まず前提概念として「思量」というのがありまして、これはおおざっぱに言えば、ある目的を達するための可能な選択肢について検討することです。そこから決断によってどれか一つを選ぶのが選択です。

「選択」も「思量」も同じことがらについて行なわれるが、ただ、選択されるのはすでに決定されたものにほかならないという点が異なる。思量に基づいて決断されたことがらが選択されるのだからである。
(中略)
「選択」ということは、われわれの力の範囲内に属することがらについての思量的な欲求であるといわなくてはならぬ。われわれは思量することによって決断したとき、この思量に基づいて欲求するのである。

 以上、高田三郎訳『ニコマコス倫理学(上)』第3巻第3章より。
 これだけだとよくわからないかも知れません。興味がおありの方は元の本を読んでみてください。
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 アリストテレスの考えは以上のとおりです。
 思うのですが、映画くらいの長さの現代の長編ドラマの場合、話の導入部では登場人物の性格の紹介が話の中心に来ます。そのときは、行為を使って性格が紹介されます。つまりその人らしいエピソードを提示して観客に性格を飲み込んでもらいます。しかし、導入部が終わって本題が語られはじめると、性格はそこで語られる事件の原因として機能するようになります。
 だから選択の積み重ねで性格が表わされるということ自体はたぶん間違いではないのですが、アリストテレスは本題での機能の方に焦点を合わせていたのでしょう。

追記: 選択の積み重ねという考え方であれば、アリストテレスよりロラン・バルトあたりを参照した方が適切だったかも知れませんね。もっとも、性格という概念は使ってませんが……
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テーマとテーゼ

 この二つは一般にあまり区別しないで使われることが多いが、物語論(narratology)の用語法では……

テーマ(独Thema, 英theme): 主題。答えようとしている疑問。
テーゼ(独These, 英thesis): 教義。擁護しようとしている価値判断(好き/嫌い・正しい/間違い・善/悪・すべき/すべきでない・美しい/醜い)。

  • 「この物語はテーマ性が強い/高い」と言われるときの「テーマ」は、実際にはテーゼのことを指しているものと思われる。
  • 「何が正しいか」に観客の関心が寄せられる展開では、要するにテーゼがテーマになるわけで、その限りでは両者は一致する。

参考文献:『物語論辞典』ちなみに、この本でのthesisに対する「論点」という訳はどうにも意味が取りづらいと思うがどうか。

種子島ストリートビュー開始

 タイトル通りなんですが、いつの間にか種子島のストリートビューが公開開始になってます。
 住まわれている方には恐縮ですが、こんなマイナーな場所がわざわざストビューの公開対象になっているというのは……関係者に『秒速5センチメートル』のファンがいたとしか思えませんな。

 がしかし、残念なことに、走行の密度が高くないようで、いまのところロケハン地を直接見ることはあまりできないようです。例えば、例のコンビニのモデルである「アイショップ石堂太平店」の面する道はストビューから外れてます。中種子高校もすぐ近くまでは収録されているんですが、あと一歩のところが収録されてなくて何も見えません。