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『ゼロの焦点』(1959・松本清張著)

  • 板根禎子はある広告代理店の金沢支社に勤める鵜原憲一と見合い結婚する。憲一は東京の本社への転勤が決まっていたため、二人は新居を東京に定めた。新婚旅行から帰った後、憲一は最後の引き継ぎのために金沢支社に出張し、禎子は東京の新居でそれを見送るが、その後憲一は、帰京予定日の前日に金沢支社の後任者となる本多良雄に目撃されたのを最後に、行方が知れなくなる。禎子は会社からその知らせを受けて金沢へ発ち、本多と共に周辺を捜索するが見つからない。そうこうするうち、憲一の兄宗太郎も金沢へやってきて憲一を探す。宗太郎は禎子と別行動で探していたが、何か心当たりがあるように禎子には思えた。禎子は宗太郎を残して東京に戻り、憲一が昔勤めていたという立川警察署に行く。そこでかつての上司から、憲一が立川基地前にたむろする米兵相手の売春婦の取締りを担当していたことを知る。そうこうするうち、宗太郎が金沢で毒殺されたという知らせが入り、禎子は金沢へ舞い戻る。現地の警察の話では、毒入りウイスキーを飲まされたのが死因で、宗太郎にそれを渡したのは売春婦のような派手な身なりの女だったらしいという。
     果たして宗太郎は誰に、どうして殺されたのか? そして憲一は新婚早々どこへ行ってしまったのか?
  • 度々映画化もされた松本清張の代表作の一つ。松本清張はあまり読んだことがなかったので、試みに読んでみた次第だが、思ったより出来が悪いというのが正直な印象。語り手たる禎子の行動の動機があまり説得的でなく、作者の都合で動かされている感があるうえ、つまるところ話を聞いて回る以上のことをしておらず、一方で本質的な意味での主人公たる憲一も行方不明で物語の表に出てこないので、一言で言ってドラマ性が低い。物語やドラマはつまるところ語り手が主人公のしたことをほめるかけなすかが目的なのだが、この話はどちらにもなってない。
  • また話の中で出てくる謎が弱い、つまり謎の不可能性が低い。謎というのは、複数の事実の帰結がぶつかってありえなくなるような形式をもっている必要があるが、この作品ではあまりそういう風になっていない。例えば憲一が新婚早々どこへ行ってしまったのかという謎は、新婚早々夫が妻をほったらかすはずがないということと、しかし実際憲一は新婚早々妻をほったらかしたという事実とがぶつかっているがゆえに生じる謎ではあるが、厳密にいえば、新婚早々相手に愛想をつかすカップルもいないことはないし、憲一が(推理小説のパターン通りに)誰かに殺されていると仮定すればほったらかしているわけではなくなるわけで、いずれもそれなりにありうることになり、ぶつかりがなくなってしまう。ぶつかりがなくなるような解釈を容易に思いつけるようなものは、謎として弱く、読者を引き付ける力が弱いのである。推理小説なのだから、密室殺人のような、どうにも解けそうにない強い謎があるべきだろう。
  • これら二つと関連することだが、推理小説で定番の、登場人物たちが謎への答えに対する(性格に基づいた)仮説に基づいて行動するという構造が欠けている。例えば、禎子は女性としての魅力に自信がないので、新婚早々憲一は愛想を尽かしてどこかの女性の家にでも転がり込んだのではないかと疑って、憲一の立ちまわりそうな売春宿を探し回るとか、そういう風になっていれば行動にも説得力が出たはずだが、実際の作品ではそうなってなくて、なんだか漫然と作者の都合であちこち立ちまわって話を聞くばかりになっている。
  • 松本清張は社会派ミステリーということだったが、話の真相にだけ社会性があって、表の筋、つまり禎子の行動にはほとんど社会性が出てこない。社会性が感じられるのは真相が明かされた後の結末周辺のわずかな部分だけである。

ひぐらし再訪(3) 劇中世界における幻想的設定の実在性

 『ひぐらし』第一話のお疲れさま会で、祟りによるものとしか思えない事件が過去にいくつも起こっていたにも関わらず、ほとんどの読者(テストプレイヤー)が劇中世界における祟りの実在を信じていなかったと報告されていたが、これはもっと祟りの実在を支持する読者が多いことを予想していた作者の竜騎士07氏にとっては深刻な問題であったはずである。一体どうしてこう解釈されたのだろうか。なお、もちろんこの問題は地の文で祟りの実在が直接描写されていないことが前提の話である。
 祟りは現実世界に実在しないからというのではもちろん答えとして十分ではない、だって劇中世界はフィクションなのだから祟りが実在したっていいはずではないか。氏はその後この点についての結論として、『うみねこ』の中で「登場人物の中に一人でも疑っている人間がいる限り、その物語世界内に幻想的な事実が実在するとは解釈されない」という説を(登場人物たちの口を通して)披露した。この説は『うみねこ』シリーズのプロットの中心的構成原理として使われている。だがこの説は本当だろうか。怪談ものなどで、幽霊の存在を信じない「愚かな人間」が不審な死を遂げるといった話はいかにもありそうではないか。疑っている人間がいるだけでは幻想的設定が否定されることにはならないのではないか。
 これはやはり、祟りが実在したという結論になったとしたときに読者がそれに納得できるか、そういう状態にあるかどうかが大事なのではないか。第一話の場合、すべてを祟りで説明しようとしても説明しきれないところが残ってしまう。例えば鬼隠しについての詳しい説明はこの時点では出てきていないから、失踪が説明できない。富竹が殺されたとき人間に囲まれていたという件もそうだ。また、二人が圭一を襲ったときの手段が注射器であったというのも祟りよりも科学的な手段を暗示する。
 「登場人物の中に一人でも疑っている人間がいる限り、その物語世界内に幻想的な事実が実在するとは解釈されない」というのは、幻想的実在を肯定しようとすると無理が生じる状況では、その結果として登場人物の方にも納得できない人間が出てくるということに過ぎないのではないか。

『ひぐらしのなく頃に』再訪(2) 真相の設定まとめ【ネタバレ】

 シリーズ最大の謎であるオヤシロさまの呪いの真相を簡単にまとめると次のようになる。完全なるネタバレであり、先に読んでしまうと著しく興をそぐ恐れが高いので、未プレイの方は決して読まないことをお勧めする。本作の謎の不思議さには類まれなるものがあり、それを味わえないのは大変な損失である。

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『フライトプラン』(2005)

 WOWOWにて途中まで鑑賞。

  • 『バルカン超特急』(1938)の、その舞台を航空機内に移した、実質的リメイク・脚色作。プロットやミステリーの構成はほぼそのままで、アリストテレスならこれらは同じドラマだと言うだろう。。また『バニー・レイクは行方不明』(1965)とも似ているとの由。前者の著作権は切れているとはいえ、脚本のクレジットはオリジナル脚本を示す”written by”となっており(脚色作では原作者を”story by”、脚色者を”screenplay by”と分けてクレジットすることになっている)、どうも印象が悪い。そんな風にそれなりによくできた原作をパクって書かれたシナリオであるにも関わらず出来が悪いので、途中で見るのを中断。
  • 一点だけ指摘しておくと、観客としては主人公を信じるべきか周囲の人間を信じるべきかという肝心のミステリーがオリジナルと比べて弱まっている。バルカン超特急では主人公が頭を打っていた上に、周りの人間がはっきりそんな人間はいなかったと断言していたので明確に矛盾していて、いかにも謎らしい謎として成立していたのに対し、この作品では主人公に特に錯乱する理由が見当たらず、また単に娘が乗客名簿に載ってないというだけなので、じゃあ誰かが名簿から削除したんだろうという解釈で解決してしまって謎として成立していない。またバルカン超特急では、もし同行者の実在が本当だったなら、主人公はウソつきたちに囲まれているということになるので、そこからちょっとしたサスペンスが生まれていたが、この話では周囲が本気で娘の不存在を信じているだけなのでそれがない。

『よつばと!』(13)

 2年ぶりの新刊。
 そろそろマンネリ感のあったところに新キャラ登場で持ち直した感じ。
 さすがに2年あったので作者もいろいろ充電できたのだろう。

『刑事コロンボ 別れのワイン』(1973・TVドラマ)

 BS TBSにて久しぶりに再鑑賞。

  • 父から受け継いだ名門ワイナリーでワイン一筋の人生を歩んできた兄が、安物ワインを大量生産する大衆ワインメーカーにそのワイナリーを売却しようとした弟を殺してしまう。倒叙ものミステリの代名詞刑事コロンボシリーズの中でも印象深い一本。
  • 倒叙ものは犯人に対していかに共感を感じさせるかの勝負である。観客が犯人側に立つからこそコロンボに追いつめられるスリル(サスペンスないしパトスと呼んでもよい)を味わうことができるのだからである。この話で観客が犯人に共感するポイントは、経済原理に抗して伝統の職人気質を守ろうとする信念である。1973年の作品だが、この信念への観客の共感は今なお変わりない。ワインという題材そのものが変化の穏やかな分野であることもあるが、今見ても古さを感じさせない作品であった。

ひぐらし再訪【ネタバレ】

 ここのところ『ひぐらしのなく頃に』を復習している。

 振り返ってみると、シリーズ前半の出題編3話で起こった事件は、大半が本筋である鷹野の陰謀とほとんど無関係であった。鬼隠し編で圭一が魅音とレナを殺してしまうこと、綿流し編で魅音が佐都子や梨花や詩音を殺してしまうこと、祟殺し編で圭一が鉄平を殺してしまうことは、いずれも鷹野らが計画したことではなく、また鷹野らの陰謀がなければ起こらなかったとも必ずしも言い難いものであり(過去4年間綿流しの日にストレスから雛見沢症候群の重症者が発生して殺人を犯したり自殺すること自体は鷹野らにかかわらず自然に起こっていた、また祭具殿への侵入は鷹野の個人的興味により陰謀がなくても行われ得る、との解釈を前提とした場合。ただ5年目の殺人と失踪だけは鷹野の陰謀と若干の因果関係を認めざるを得ない)、鷹野からみて偶然に近い。これらは精々、雛見沢症候群という共通の原因を持っているという程度の関係にしかない。
 共通の原因をもっている以上不自然な偶然とは扱わないというのがドラマの世界のお約束である。ミステリーはこのルールに大きく依存している。だからこれらの後に鷹野の陰謀が出てくることは一応不自然ではないものと扱うことになる。連続失踪の方は鷹野の陰謀の結果でもあったし。しかし描写されるものという観点から見た場合、シリーズ前半で描写されるのは主に雛見沢症候群の危険性であって、鷹野の陰謀の危険性ではないということになる。これは本筋から外れているのではないか。読者をミスリードするという方向に偏り過ぎているようにも思われる。推理小説はこういうものなのだろうか。
 実は、鷹野の陰謀という要素は比較的後になってから追加されたのではないかとする説がある。もしシリーズから鷹野の陰謀という要素を除去し、入江あたりが雛見沢症候群が真の問題だと突き止めてめでたしめでたしで終わるような話にシリーズを書き換えたとすると、上で述べたような問題は大幅に軽減される。ひょっとすると、元々の構想はそのようなものだったのかも知れない。

 またダム建設計画が雛見沢に持ち上がったことは読者や圭一をミスリードする上で重要な役割を果たしたが、これは雛見沢症候群とは共通する原因すらない純然たる偶然である。ドラマにおいて純然たる偶然を完全に排除することはできないが、偶然が増えれば増えるほど実現確率が下がり、描写の強さが弱まる。鬼隠し話で言えば、雛見沢症候群が危険だといっても、圭一の殺人はダム建設計画という偶然がなければ起こらなかったということになるから、雛見沢症候群が危険だという描写を弱める方向に働く。もっとも、偶然だったということは最後まで読まないとわからないから、読んでいる途中にはあまりそう感じさせない構成ではあるが。

 ドラマの主題とは結局その中で起こる出来事の共通原因のことなのだろうか。そうであるような気がしたこともあるし、そうでないような気がしたこともある。
 とにかくこの主題というのは作劇における呪いのような概念である。

『ゴーン・ガール』(2014)【ネタバレ】

 WOWOWにて鑑賞。

  • 浮気した夫を懲らしめようと、夫が妻を殺したような証拠を捏造してばらまいておいた上で失踪するサイコ妻。
  • 言ってしまえばそれだけの話なのだが、尺が2時間30分近くありとにかく長すぎる。しかも話が動き出すまで1時間以上かかっており構成面でまったく褒められない。この内容なら2時間弱に納められたはずである。長編にしたいなら前半は別の容疑者を立ててミステリー仕立てにするなりしないとダメだが、このシナリオだと夫が犯人でないことを初めにはっきり描写してしまっているしその他に特に容疑者もいないので、ミステリーとしても成立してない。

55点/100点満点

『ひぐらしのなく頃に』のページ数

 『ひぐらしのなく頃に』は、プレイしているときからずいぶん長い話だなあと思っていたが、小説などと違ってページ数という概念がない(正確に言えば一応ないこともないけど)ので、実際どの程度の分量なのかよくわからなかった。かかった時間で言えば相当なものだが、チマチマクリックしたりエフェクトを待ったりしながら読んでいくので、ふつうの小説に比べると文章を読む速度が遅くなっていたと思われるから、時間で計るのも正確ではない。
 ところがこのたび同作のテキスト部分をテキストファイルとして抜き出すことに成功したので、文字数や行数を正確に数えることが可能になった。その結果は次の通りである。いずれも本文部分だけでTIPSやお疲れさま会部分は含んでいない。空行やNScripterのスクリプト部分も除外してある。1ページの文字数はあるライトノベルの文庫本の値、42文字×16行で計算した。文字数はUnicodeの文字数である。

  1. 鬼隠し編 227857字 9047行 566ページ
  2. 綿流し編 314013字 11764行 736ページ
  3. 祟殺し編 324306字 12222行 764ページ
  4. 暇潰し編 133483字 4931行 309ページ
  5. 目明し編 316695字 11885行 743ページ
  6. 罪滅し編 343937字 12631行 790ページ
  7. 皆殺し編 406577字 14513行 908ページ
  8. 祭囃し編 (不明)
  9. 賽殺し編 91942字 3360行 211ページ

 祭囃し編は、カケラ集めがある関係でうまく抽出できなかった。
 大体文庫本1冊は300~400ページ前後が多いため、各編は概ね文庫本上下二巻程度の分量、ただし真相が明かされる皆殺し編は上中下3巻相当、暇潰し編と賽殺し編は1冊相当程度という結果になった。祭囃し編も2冊程度と仮定すると、なんと全17巻の大長編ということになる。実はこの作品にはノベライゼーションも出ていて、それがまさに17巻構成である。
 同人ゲームとしてはこれだけの字数の文章を書いたというだけでも大したものである。完成させるためにはさらにプログラミングも必要なのだから、片手間で作れる作業量ではない。