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『鉄の門』(マーガレット・ミラー)

 江戸川乱歩が類別トリック集成で褒めていたこの作品、読んでみたいと思いつつも絶版作品だけになかなか読めずにいたが、Amazonで古本で出ていたのを見つけてようやく入手できたので早速一読した(53年の古い訳の方。江戸川乱歩の解説付き)。
 その感想だが、ちょっと期待しすぎたかあまり感心しなかったというのが正直なところである。心理的スリラーというからもっとハラハラするような話かと思っていたが、その面では失敗作である。これはミステリーではよくある類の失敗で、要するに情報を伏せすぎて、主人公に危険が迫っていることや、その危険は事と次第によっては読者の身の上にも起こりうることであるということを、読者に確信させられなくなってしまったのである。
 乱歩が評価したのは心理的な探偵小説であるというところだが、これが具体的に何を意味するのか筆者にはよくわからない。ただこの話の結末の一つの特徴は、謎解き役の刑事が主に動機面から推理して犯人を突き止めるのだが、それだけでは証拠がないというので、結局犯人は逮捕も起訴もされずに終わることである。今では別に珍しくもない終わり方だが、当時はそうでもなかったのかもしれない。必ず犯人は逮捕されなければならないという縛りがあるとないとでは、創作の自由度が段違いであろう。乱歩はそこを切り開いたことを評価したのかもしれない。

推理・探偵小説の視点の問題

 ここ最近いくつか推理小説・探偵小説を読んでみたが、一つ云えそうなことは、この種の小説では、視点を加害者、被害者、偽の容疑者のいずれかに置くべきであって、探偵小説だからと云って探偵に視点を置いてしまうと駄作化するということである。どうしても探偵の立場で語りたいならば、探偵が前三者のいずれかと一体となって行動するようにしなければならない。これに反する話は、探偵が事件後に話を聞いてまわるだけになりがちであり、そのようなものはドラマ性が薄くてつまらない。サスペンスが弱くなる。特に長篇だとダレてしまう。
 被害者に視点を置くときは、事件前から話を始めることになる。死んでしまっていては視点が置けない。連続殺人のようにすでに誰か他人が殺されていたり、あるいはすでに一度以上本人が殺されそうになっていたりすることもあるが、それでも視点の置かれている被害者はまだ死んではいない。

 この基準でいくと、モルグ街の殺人などは失格になる。ただ短篇なら話がダレる前に終るので読めないこともない。横溝正史で云うと、八つ墓村は可だが獄門島は不可である。シャーロック・ホームズなどは、一見ホームズによる事後の推理が中心になっていそうでいて、実は依頼に来た被害者の話が事件前から始まっていて、実質的に被害者視点である話が多い。クリスティでは『そして誰もいなくなった』は可で『オリエント急行殺人事件』は不可である。竜騎士07作品では、『ひぐらし』は可で『うみねこ』はどちらかといえば不可(バトラやアンジュは最後まで死んでないし前半の事件で狙われてすらいないから直接の被害者とは言い難い)。

類別トリック集成

 推理小説界で有名なトリック分類、江戸川乱歩の『類別トリック集成』を入力して公開しました。江戸川乱歩の作品は今年から著作権が失効しています。素人が読むとネタバレのオンパレードになってしまうからか、青空文庫では入力予定になっていません。
 昭和28年に書かれたものなので、今となっては古典的作品のトリックのみですが、そこが却ってわかりやすいのではないでしょうか。それに、読んでいると、現代の作品でも思い当たるものが多数あります。この前プレイした『逆転裁判』にもここに書いてあるそのままの筋がありました。江戸川乱歩自身、何々という海外の作品をもとにして私のこれこれの作品を書いたと記しており、ネットではよくパクリパクリと騒がれますが、作品はゼロから作るものでなく、過去の成果を踏まえて作るものなのだということがよくわかります。

『砂の器』(1961・松本清張著)

  • 蒲田駅近くの操車場で、顔を潰された身元不明の死体が見つかった。この被害者が最後に目撃されたのは蒲田駅近くのバーで、東北訛りで若い男と話をしていたという。話を漏れ聞いたバーの店員らによると、二人の間には「カメダ」なるものについての話が出ていたらしい。警察は蒲田付近の聞き込みを開始するが何も情報は得られない。そんな折、偶然秋田に亀田なる土地があることに気づいた小西刑事は、一縷の望みをかけて同地に出張する。現地の警察署長に話を聞くと、最近よそ者が亀田に来て周辺を一日うろついたあと青森方面に去ったことがあったという。それが蒲田のバーで被害者と一緒にいた男かどうかはわからない。あまり収穫もなく小西は帰京するが、その際亀田の駅でたまたま当節世間の注目を集めている芸術家集団「ヌーボー・グループ」の一団に出くわす。彼らはこの近くにある大学のロケット実験場の視察に行った帰りだという。
     果たしてカメダとは何か。被害者は何者か。そしてバーで話していた若い男は犯人なのか。
  • 松本清張のこれもまた有名な一作。前のエントリで書いた欠点もそのまま。とにかく捜査が偶然、というより作者に都合のいい気まぐれに頼り過ぎである。上に示した冒頭部分のあらすじの範囲で言っても、たかが亀田という地名が一致したくらいで、特に確かめたいことがあるでもないのに、現地の警察署に電話すれば済むようなことを聞くだけのために、わざわざ何日もかけて夜行列車に乗ってまでで現地に行く必要はないはずだし、現地をたまたま見慣れぬ若者が散歩していたくらいでいちいち不審に思うのもおかしい。この手のご都合主義が延々続く。

『ゼロの焦点』(1959・松本清張著)

  • 板根禎子はある広告代理店の金沢支社に勤める鵜原憲一と見合い結婚する。憲一は東京の本社への転勤が決まっていたため、二人は新居を東京に定めた。新婚旅行から帰った後、憲一は最後の引き継ぎのために金沢支社に出張し、禎子は東京の新居でそれを見送るが、その後憲一は、帰京予定日の前日に金沢支社の後任者となる本多良雄に目撃されたのを最後に、行方が知れなくなる。禎子は会社からその知らせを受けて金沢へ発ち、本多と共に周辺を捜索するが見つからない。そうこうするうち、憲一の兄宗太郎も金沢へやってきて憲一を探す。宗太郎は禎子と別行動で探していたが、何か心当たりがあるように禎子には思えた。禎子は宗太郎を残して東京に戻り、憲一が昔勤めていたという立川警察署に行く。そこでかつての上司から、憲一が立川基地前にたむろする米兵相手の売春婦の取締りを担当していたことを知る。そうこうするうち、宗太郎が金沢で毒殺されたという知らせが入り、禎子は金沢へ舞い戻る。現地の警察の話では、毒入りウイスキーを飲まされたのが死因で、宗太郎にそれを渡したのは売春婦のような派手な身なりの女だったらしいという。
     果たして宗太郎は誰に、どうして殺されたのか? そして憲一は新婚早々どこへ行ってしまったのか?
  • 度々映画化もされた松本清張の代表作の一つ。松本清張はあまり読んだことがなかったので、試みに読んでみた次第だが、思ったより出来が悪いというのが正直な印象。語り手たる禎子の行動の動機があまり説得的でなく、作者の都合で動かされている感があるうえ、つまるところ話を聞いて回る以上のことをしておらず、一方で本質的な意味での主人公たる憲一も行方不明で物語の表に出てこないので、一言で言ってドラマ性が低い。物語やドラマはつまるところ語り手が主人公のしたことをほめるかけなすかが目的なのだが、この話はどちらにもなってない。
  • また話の中で出てくる謎が弱い、つまり謎の不可能性が低い。謎というのは、複数の事実の帰結がぶつかってありえなくなるような形式をもっている必要があるが、この作品ではあまりそういう風になっていない。例えば憲一が新婚早々どこへ行ってしまったのかという謎は、新婚早々夫が妻をほったらかすはずがないということと、しかし実際憲一は新婚早々妻をほったらかしたという事実とがぶつかっているがゆえに生じる謎ではあるが、厳密にいえば、新婚早々相手に愛想をつかすカップルもいないことはないし、憲一が(推理小説のパターン通りに)誰かに殺されていると仮定すればほったらかしているわけではなくなるわけで、いずれもそれなりにありうることになり、ぶつかりがなくなってしまう。ぶつかりがなくなるような解釈を容易に思いつけるようなものは、謎として弱く、読者を引き付ける力が弱いのである。推理小説なのだから、密室殺人のような、どうにも解けそうにない強い謎があるべきだろう。
  • これら二つと関連することだが、推理小説で定番の、登場人物たちが謎への答えに対する(性格に基づいた)仮説に基づいて行動するという構造が欠けている。例えば、禎子は女性としての魅力に自信がないので、新婚早々憲一は愛想を尽かしてどこかの女性の家にでも転がり込んだのではないかと疑って、憲一の立ちまわりそうな売春宿を探し回るとか、そういう風になっていれば行動にも説得力が出たはずだが、実際の作品ではそうなってなくて、なんだか漫然と作者の都合であちこち立ちまわって話を聞くばかりになっている。
  • 松本清張は社会派ミステリーということだったが、話の真相にだけ社会性があって、表の筋、つまり禎子の行動にはほとんど社会性が出てこない。社会性が感じられるのは真相が明かされた後の結末周辺のわずかな部分だけである。

『死の接吻』(1953)

 倒叙ものミステリー小説だが、犯人の名前が後半部まで明らかにされないというところに特色がある。評価の高い作品なので期待して読んでみたが、これは失敗作。この小説のもっともキモである、犯人の名前が明らかになるところで盛大に滑っている。しまったそう来たか、と思えない。

『ブギーポップは笑わない』(上遠野浩平著・1998)

 第4回電撃ゲーム小説大賞受賞作品。ライトノベルが、それまでのTRPGリプレイ小説の延長線上から外れて独自の路線を歩み始める最初期に出た元祖ライトノベルともいうべき作品の一つ。この賞の名前がそれまでのライトノベルレーベルの位置づけをよく表している。
 ここでいう独自の路線とは、これまでもここで説明してきているように、一言で言えば十代男子向けのSFファンタジー風学園ロマンス軽小説という路線のことで、早くも本作でその要素はほぼすべて出そろっている。また、いわゆる「セカイ系」の源流でもある。
 その後ブギーポップシリーズの本は20冊近く出たが、本書はその第一作。作者曰く、本書は本書だけで完結しており、シリーズのその他の本は本書の姉妹編という位置づけとのことである。そのあたりの事情は『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流著・2003年)とも似ている。

 この物語の本筋は、事件の表層だけを取り出して言えば、女子高生宮下藤花に「ブギーポップ」と名乗るなんらかの霊的存在が取り付き、その仲間にあたる存在と共に、彼女の通う高校に巣食い世界征服を目論む人食い「マンティコア」(やはりこれも高校生に取り付いて支配する能力を持つ)を退治するという話である。しかし、霊的存在と言っても、それは実際には取り付かれたとされた人間が元々持っていた別人格だったと解釈する余地もあるような曖昧で意味深な設定である。
 そういうことが何を含意するかという深読みの部分はひとまず置いておいて、表面的なドラマ性という面で評価するならば、これはかなり粗削りな作品である。物語は5つか6つくらいの章から構成されていて、それぞれの章で視点人物が違うが、藤花視点で進む章は存在せず、もっぱら藤花の周囲の人間から出来事が語られる形式になっている。そういう構成になっているために、上述のメタファを解釈しなければならないことと相まって、ライトノベルというわりにそれほどわかりやすい話にはなっていない。また冒頭の章でブギーポップが敵を倒したという結果を開示した上で話が進むこともあって、サスペンスとしてもミステリーとしても何か中途半端で、物語のそれぞれの時点で読者に何に興味を持たせようとしているのかという狙いが曖昧になっているように思われた。

 そういえば、学園ファンタジー形式の物語に寓意を持たせるというやり口は、その後のライトノベルにしばしばみられるところだ(そもそも寓意というものはファンタジーの本質的要素ではあるが)。『涼宮ハルヒの憂鬱』にしても『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(滝本竜彦著・2001年)にしてもそうだった。そういう意味でもこの作品はライトノベルの元祖であり、お手本なのだろう。

65点/100点満点