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『孤独のグルメ』(TVドラマ)第7話「武蔵野市吉祥寺喫茶店のナポリタン」

  • 今回のサブタイトルについて。このシリーズのサブタイトルは、原作から一貫して「[地名]の[料理名]」という形式で統一されていたが、今回初めてそのルールから外れた。「武蔵野市吉祥寺喫茶店」という地名はない。原作には第16話に「東京都豊島区池袋のデパート屋上のさぬきうどん」という類例があり、これは原作者としては「デパート屋上のさぬきうどん」というのが食べ物の名前だと考え、それに地名である「東京都豊島区池袋」を「の」で接続したつもりのものであるはずである。この伝でいけば、今回は「喫茶店のナポリタン」が料理名だから、「武蔵野市吉祥寺喫茶店のナポリタン」というサブタイトルであるべきであった。あるいは単に「武蔵野市吉祥寺のナポリタン」でもよかった。わずかな違いとはいえやはり世界観の崩れには違いなく、またあえてそれを崩すだけの必然性があったとも思えない。「の」の連続がうるさいのはわかるが。
  • 脚本家が元に戻ったようである。
  • これは以前の回でも感じたことだが、(たぶんこの脚本家のクセなのだろうけれども、)主人公の決断の前提知識を観客に説明するのが遅すぎることがある。今回で言うと、どのコロッケを買うかという葛藤に対して、遅くとも主人公が両方買うという決断を下す時点までには、主人公が朝飯をまだ食べてなくて腹が減っているというその葛藤と決断の前提となる情報を提示しておかなければならない。さもないと、観客が主人公の立場ならどうするだろうと考える機会を失ってしまう。いや、正確に言えば、一応、いつも並んでいるはずのメンチカツ屋がすいていたからという理由は提示されているのだが、それならメンチカツがないとわかった時点でなにも買わないという決断になるはずであり、何でなおコロッケを買うのかさっぱりわからないのである。
  • たぶんそんなことはないと思うが、もし万が一、五郎がなぜコロッケを買うことにしたのかをミステリー仕立てで進行させ、ジャズ喫茶のシーンで種明かしをするという構成にしたかったなら、(1)その間は五郎の語りは入れない (2)行列ができていたという下りはカットする 必要がある。
  • ジャズ喫茶といえば、うじきつよしはジャズ喫茶の店主より隣でナポリタン食べてたおじさん役の方がよかったんじゃなかろうか。
  • 料理をなるべく早く登場させるという方針は、どうも脚本家にとって重荷になっているように見える。ドラマの構成はそれぞれの脚本家が独自のスタイルを持っていて、一部だけいじることなどできるものではないのだろう。
  • またこれも以前の回でも感じたことだが、五郎の語りとして「なんかいいなあ」なんていう中身のないことしか言えないなら、むしろそんなセリフはなしにして、ト書きに「えもいわれぬノスタルジックな雰囲気の店々の並ぶ一角を五郎が歩いていく。」とでも書いておくだけにして、あとは演出と役者に任せた方が良い。
  • 喫茶店で店員が外を見ているのを五郎が不思議に思うシーン、遅くとも五郎が不思議に思う時点までには、観客に「あの店員、なんで外見てるんだろう」と思わせるように仕組んでおかないとダメ。今回のシナリオだと、むしろ「五郎はなんでそんなどうでもいいことを気にするんだろう。脚本家の都合かな?」と思わせてしまっている。
  • 喫茶店で注文が他人と被ったから別の料理を頼むというのは五郎らしくない。どちらかというと他人に合わせるキャラのはずである。原作の廻転寿司、鰻丼、シュウマイ、おまかせ定食のエピソードなど参照。
  • 相変わらず料理は旨そう。松重豊の料理を前にしたときの表情は素で喜んでいるように見える。

『孤独のグルメ』(TVドラマ)第6話「中野区鷺宮のロースにんにく焼き」

  • 今回の脚本はシリーズ最悪。脚本家が変わったらしいが先が思いやられる。もうドラマパートは飛ばして久住氏のとこだけ見ようかな。
  • この記事で久住氏がもっと早く食べるシーンを入れろと言っているけど、それ自体はもっともにしても、今回は全然成功してない。

『孤独のグルメ』(TVドラマ)第5話「杉並区永福の親子丼と焼うどん」

  • 相変わらず、店についてはよくこんなとこみつけたなと思うし、B級の料理も旨そうである。
  • 演出は、前回と比べるとやや持ち直した感あり。ただやっぱりピントが甘い場合がある。もうこれはたぶん演出っていうより単純に合わせそこなってるんだな。
  • ここまで4話ほど見てきたが、やっぱりこのシリーズは、半分は松重豊の演技力で持っているようなものだと確信。
  • 脚本について。この作品はデッドパンな喜劇としての側面を持っていて、特にこのTVシリーズでは、原作と比べてその側面を強調する方針のように見えるのだが、残念ながらどうも滑稽味が上手く出ていないようである。今回の話でも、釣り堀の男性をピエロ役にしようとしているようなのだが、あまり笑えなかった。
  • 滑稽味が何に由来するかというのは作劇理論における一大問題だが、少なくとも、笑われるべき人が、単に何か面目を失ったりひどい目にあったりといった損害を被ればいいというだけのことでないというのは確かである。おそらく、そういう結果も必要なのだが、そのほかに、それが本人の見込み違いの決断に基づく行為から生じたという因果関係も必要なのではないだろうか。そしてまた、それだけでなく、その決断が、一つの選択肢としてあり得なくはないものの、しかし観客ならば実際にはそのような選択肢は選ばないと思えるようなものである必要もあるものと思われる。一般に喜劇を書くのが難しいのは、おそらくこの「あり得なくはないが自分ならしない」という条件が非常に狭く厳しいためだろう。そしておそらく、自分ならしないのにあり得なくはないと思う場合というのは、「そういう人っているよね」と思えるような場合である。原作はこのあたりが上手かったのである。
  • なお、失敗をもたらすような行為が、自分だったとしてもそうしたと思えるように描写されたならそれはシリアスドラマである。自分だったとしたらそうはしなかっただろうし、そもそもそんな選択をする人がいるとは思えないということなら、それはもはやドラマではない。また、そのような行為からそのような失敗が生じるとは思えないときもやはりそれはドラマの体をなしていない。今回の話は2番目のケースに近いが、そもそもなんのつもりで釣り堀の男性がああいうことを言っていたのか自体がわかりづらかった。
  • また細かいことだが、冒頭のフラッシュバックは、それが前日のことであるということが少しわかりづらかった。今回のケースでは、フラッシュバックの冒頭に

    五郎の声「俺は昨日、1週間前に注文をもらっていたあるクライアントに呼び出された」

    などと一言説明を入れておくとわかりやすくなったはずである。

  • ところで、このTVシリーズとは関係ないのだが、NHK BS1(本来は、NHK WORLD)にて放送中のTOKYO EYEで、赤羽と十条が今週のテーマとなり、あのまるます家が取り上げられていた。残念ながら最近Webの方には過去分の動画をアップロードしてくれなくなったようなのだが、再放送もあるようなので興味のある方は是非。外国人向けの英語放送だが、英語は比較的易しいので、英語を勉強中の日本人にもおすすめの番組である。でも、一応東京出身のはずの司会のクリス・ペプラーの英語が一番聞き取りにくいのはどうしたわけだろう。

『ゾンビ』(ダリオ・アルジェント監修版)

 WOWOWにて久しぶりに再鑑賞。

  • この作品にはいくつものバージョン違いがあり、今回WOWOWでは「ディレクターズ・カット版」(139分)と「ダリオ・アルジェント監修版」(119分)が放送された。ダイオ・アルジェントは、この作品に一部出資してヨーロッパでの興行権を獲得した映画監督で、「ダリオ・アルジェント監修版」はヨーロッパ公開版。
  • ふつうディレクターズ・カット版というのは、尺が長い分オリジナル公開版より作品をよりよく理解できるようになっているものだが、この作品においてはそれが逆で、ダリオ・アルジェント監修版と比較すると、ディレクターズ・カット版では、作品の理解に必要な重要なセリフがカットされる一方、本筋に関係ないような場面が追加されている。ロメロ監督自身、撮影完了からの時間的余裕がなくて粗編集しかできず、不満足な出来だったと言い訳しているようだ。したがって、ここではダリオ・アルジェント監修版が「正典」と考え、こちらでレビューする。
  • ロメロ監督のゾンビ第一作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』もそうだったが、シナリオの出来という面でみると、人物の行動の動機が不自然不明確なのが大変気になる。まずそもそも、なぜヘリコプターでTV局から脱出したのかがわからない。TV局にはまだゾンビはいなかったのだから、とどまった方が安全ではなかったか。全国的にゾンビが出没していることはすでにわかっていたのに、どういう見込みをもってどこへ行こうとしたのだろうか。これがわからないので、なぜわざわざ給油施設のないショッピングセンターの屋上に着陸したのかもわからない。それがわからないので、ショッピングセンターに着いた後も、主人公たちが最終的に何をしたいのかもわからない。実際に彼らがショッピングセンターでしたことから逆算して考えると、どこでもいいからゾンビから逃れて暮らせる場所を探していたということかも知れないが、ショッピングセンター内にゾンビから逃れて暮らせる場所があることは着陸して初めて分かったことで、それまではむしろ市街地は危険だと言っていたのだし、現に駐車場にゾンビの姿が見えてもいた。それに、ショッピングセンターから出ることなくたった4人で社会から孤立して残りの人生を過ごすというのはちょっと無理がないだろうか。要するに、主人公たちにはあまりに計画がなさすぎるのである。
  • ただそうはいっても、ショッピングセンターに着いてからのゾンビとの手に汗握る攻防戦には見るべきものがある。動きが遅く愚かだが数の多いゾンビと、素早く動け銃を持ってはいるが数の少ない人間という配置の「ゲームバランス」が絶妙なのだろう。また、愚かな人物が仲間の足を引っ張り、最後には自滅していくというホラーで定番の人物配置を確立したのは、おそらくはこの作品が元祖ではなかろうか。
  • 改めて見直してみると、『エイリアン2』『ターミネーター2』あたりの初期のキャメロンのヒット作は、ほとんどこの作品の焼き直しと言ってもいいほどに似ている。もっとも、『エイリアン』は第一作からしてそうだったのだが。

nginx

 WordPressの遅さに耐えかねて、リバースプロキシのnginxを導入してみました。これで、一度表示されたページは二度目から高速に表示されるようになりました。ただし、新しい投稿がされるとすべてのキャッシュがクリアされます。また、ブラウザでリロードすると再生成されるはずです。
 何かありましたらコメント欄まで。

追記: この影響で不具合が出たので、Ktai Styleを使った携帯電話への対応を中止しました。スマートフォン化が進み従来型携帯電話からのアクセスが減っていることもあります。

『孤独のグルメ』(TVドラマ)第三話「豊島区池袋の汁なし担々麺」

  • 相変わらずピントが怪しいところはあるものの、脚本演出とも前回より明らかに手馴れてきている。
  • 今回は脇も含めて比較的自然な演技だった。
  • 追記: 今回は前回と演出者が別人だったらしい。
  • 五郎ってこんなにうまいうまい言ってたっけ、と思って原作をチェックしたところ、旧連載中、「うまい」を言わなかったのは高崎の焼きまんじゅうと江の島の江の島丼、神宮のカレー、そして板橋のハンバーグランチ(あと秋葉原では「上等上等」)くらいのもので、後はうまいうまい言いまくりだった。

70点/100点満点

『病院で死ぬということ』

 NHK BS2にて鑑賞。実に一昨年の7月に放送され録画したものをやっと観た。なお、DVDにはなっていないらしい。

  • 内容は題名通りで大変重いので、レンタルショップにあったとしてもなかなか手の出にくい作品だろう。そういう作品との接点を作ってくれるのはTV映画の一つの特長である。
  • 入院にまつわるディテールの密度が高く、演技もリアル志向。安心して見られる演出である。
  • ブロゴスフィアでは、患者が亡くなる直前の苦痛を映さない点や、ラストで解決原理として愛を持ち出している点について、きれいごと過ぎるという批判が多いようだ。前者の妥当性については正直よくわからないが、後者についてはやはり少々安易だったかも知れないと思う。

80点/100点満点

『孤独のグルメ』(TVドラマ)第二話「豊島区駒込の煮魚定食」

 TVドラマだけどこのカテゴリで。第一話は見逃した。

  • シナリオについては、期待していたよりもいい出来。店側に配慮して言いたいことの言えなくなった昨今の漫画版よりもずっと『孤独のグルメ』らしい話に仕上がっている。
  • あえて一点指摘すると、公園の素人将棋に誘われていくシークエンスでは、五郎が子供の頃から将棋好きであったということをもう少し早いタイミングで示した方がよかった。ふつうの人はああいう状況で見知らぬ老人たちのところに誘われていったりしない。
  • 松重豊の抑えた演技もよろしい。ただ、脇役たちの演技はコテコテで、それが対比効果によりますます気になってしまった。
  • 演出面ではほかにもいくつか気になったところがあった。まず、屋外のシーンで、ピントがきちんと五郎の顔に合っておらず、どちらかといえば背景の方に合っているところがあった。もし単にピントを合わせそこなっただけなら撮影技術上の問題に過ぎないが、背景に注目させるためにわざとこうしたとすれば演出上の問題である。ピントは観客が注目している部分に合わせるのであって、ピントを背景に合わせたから観客が背景に注目するのではない。背景に注目させたいならば、例えば次のようにしなければならない。
    1. 五郎歩いてくる。ピントは五郎の顔。
    2. 五郎、振り返って背景の看板を見る。ピント背景の看板に合う。
    3. 五郎、また前を向いて歩きだす。ピント五郎の顔に合う。
  • 二人の人物の会話のシーンで、一方の人物がなにかを話しているのをマスターショットで映しているとき、その相手が石化したように固まっているときがあった。シナリオになにも動作が書いていないからといって、こういう演技をしたのでは不自然である。演出者・演技者なりに何かさりげない動作を考えるか、それができないならカットを割ってフレームの外に出すか、何か工夫が必要である。
  • また、会話の「間」が長すぎると思われるところもあった。これが石化の違和感をさらに強くする。
  • 出てくるメニューはなかなか魅力的で、「観た後腹が減るドラマ」という目標はおおむね達成されているようにおもわれる。ただ、煮魚はあんまり汁が染みてるように見えなかったな。

60点/100点満点