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『アメリカン・ビューティー』(1999)

 WOWOWにて鑑賞。
 一応当年のアカデミー作品賞・脚本賞等を獲得した作品なのだそうだが、この年はアメリカ映画が不作の年(とはいえ、『マトリックス』第一作と『スターウォーズ エピソード1』がヒットしたのはこの年)。実際のところ、なんだか出来の悪いコメディーを間違ってシリアスに演出しちゃったという感じの話。どうなんだこれは。

50点/100点満点

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013)

 WOWOWにて鑑賞。
 ウォール街の新興証券会社の創立者ジョーダン・ベルフォートの、栄光と堕落と転落の人生を記した回顧録を元にした作品。マーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ主演。

 3時間近くある作品なのだが、とにかく前半が退屈。急成長した会社内部で繰り広げられるスキャンダラスな乱痴気騒ぎのエピソードが次々に描写されるにも関わらず、どうしてこうなってしまうのかというと、いつも言っているように、主人公を動かすような脅威がない、そしてそれを避けるための決断がない、つまり葛藤がないから。主人公はこれで行くことにしたらしいけれど、さてそれでうまくいくのかな、というのを確かめたくて観客は話の続きを見るのだが、この話の前半にはそれがない。後半に入ると警察をどうやり過ごすかという問題が出て来てやっと面白くなりはじめるが、ちょっと遅すぎた。率直に言って、この半分の尺で十分な話。一応コメディ路線も狙った作品らしいのだが、大して笑えるわけでなく、その面でも失敗。

60点/100点満点

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語 [後編]永遠の物語』(2012)

 WOWOWにて鑑賞。

 最近なにかと話題の脚本家、虚淵玄の代表作の一つである2011年のTVアニメシリーズ『魔法少女まどか☆マギカ』(全12話)の総集編。前後編に分かれており、ほぼ同時に公開された。翌年、シリーズの完全新作である同『[新編] 叛逆の物語』も公開されたが、ここではとりあえず大変話題を呼んだTVシリーズに相当する内容のこの2編だけレビューする。
 あらすじに関しては珍しくWikipediaに完全なあらすじが書かれているのでそちらを参照されたい。

 若干問題を含むストーリーのように感じられたが、以下レビュー執筆中。とりあえず今簡単に指摘できそうなことは、Steins;Gateの劇場版と同じく、これは悲劇になりそこねたメロドラマだということである。だから結末にカタルシスがない。

70点/100点満点

『招かれざる客』(1967)

 WOWOWにて鑑賞。

  • まだ白人と黒人の結婚が違法の州も存在していた時代のアメリカが舞台。一人娘を持つ白人の老いた父マット・ドレイトンが主人公。ある朝、娘のジョーイがマットの家に見知らぬ黒人青年ジョン・プレンティスを連れて来て、彼と結婚するつもりだと言いだす。突然それを聞かされたマットは妻のクリスティーナともども茫然とする。娘には肌の色で人を差別してはいけないと教えて育ててきたものの、実際問題、黒人と結婚するとなれば二人が苦労することは目に見えている。だが、純粋な娘は両親がこの結婚を祝福してくれるものと信じ切っている様子だ。ジョンに話を聞くと、この結婚が困難なものになりうることは理解しているので、ご両親に賛成してもらえないなら諦めるが、この後すぐにスイスに赴任しなければならないため、今日の夕食までの間に結論を出してほしいと言う。あまりに急な話にマットは混乱する。妻クリスティーナは娘が彼を愛しているならと賛成するようだが、マットはなかなか答えを出せない。悩んだ末、マットはやはりこの結婚には反対すると心を決めるのだが……
  • 名優スペンサー・トレイシー(『カールじいさんの空飛ぶ家』の主人公カールじいさんのモデルで、特に本作では顔がそっくり)の遺作にして、アカデミー脚本賞受賞作。スペンサー・トレイシーとその妻役キャサリーン・ヘプバーンのコンビの安定感ある名演技は一見の価値がある。脚本はシーン数の少ない演劇的なシナリオで、話の中身は良くも悪くもウェルメイドな感じ。ただ、出てくる登場人物が皆誠実で魅力的であり、安心して家族で見られるハートフルストーリーの佳作に仕上がっている。アメリカ映画界にもこんなドラマが作れた時代があったのだ。
  • このプロットが良くも悪くもウェルメイドだというのは、人物の魅力のほかには、主に主人公の葛藤がしっかりしているところに原因がある。自らの信条からも娘の期待には応えてやりたいが、娘が結婚生活で苦労するようなことも避けたい。そういう葛藤がドラマの早い段階で明確に描写されるので、この話で何が問題になっているのか観客が容易に理解できる。それがいいところである。
    一方で、この葛藤は二つの望みがあまりにガッチリと相反し合っていて、妥協なしには解決が不可能である。それがこのシナリオの最大の問題である。本作を鑑賞中の観客が望むことは、わざと黒人差別がどぎつく表現されないこともあって、どちらかと言えば主人公が結婚に賛成することだと言えようが、仮にそうしたとすると二人は結婚生活において困難に直面するわけであり、それが果たして本当に望ましいことなのか確信が持てないはずである。したがって、観客の話の先行きに対する望み・期待は弱いものになってしまう。この作品の実際の結末では、結局主人公が結婚を認めたが、二人の困難な結婚生活という問題は解決されないままなので、見事な解決になっているとまでいい難い。
  • 一般に、ドラマの葛藤には、相反する複数の望みがすべて叶えられる余地を残しておくべきである。そしてできれば、結末ではそれを実現させるべきである。あるいはそれができないにしても、その余地がある期間をなるべく引き延ばすべきである。もっとも、すべて叶えられる可能性があるなら相反しているとは言えないわけで、正確には相反しないで済む余地を残しておくべきだというべきか。
    例えば、『ひぐらしのなく頃に』の第一話「鬼隠し編」における葛藤は、主人公圭一に親切にしてくれたために殺されたのかも知れない富竹の仇は討ってやりたいが、さりとて圭一を愛してくれるレナを犯人として告発するような状況に陥りたくもないというものであった。しかし客観的にはレナが犯人である可能性が否定もできない状況でもあった。もしレナが犯人なら、彼女を告発するなりして仇を討つか、あるいはそれを見逃して仇を討つのは諦めるかの択一であり、両方の望みが叶えられることはあり得ないことになる。しかし、レナ以外に犯人がいる余地も残っているから、ほとんどの読者は、この二つの望みを両立させるために、登場人物(この話ではそれが可能なのは主に主人公圭一だが、大石という線もある)がなんとかレナ以外の犯人を捜しだすことを望んだはずである。
    なお、これが、この話で読者がフーダニットに関心を抱く理由となる。殺人事件が起こっただけでは読者はそれに関心を抱いたりしない。祟りかもしれないというだけで読者がそれに関心を抱いたりもしない。
    ただしこの話で圭一は、実際にはその読者の望みとは少しずれた行動を取る。圭一自身が狙われているらしいというのでまず身を守ろうとするのである。このサスペンスは一つには圭一が問題を放置するという選択ができないようにするための作劇上の工夫だが、とにかく圭一が死んでしまっては犯人捜しは難航するから、結局読者もそれを支持する。しかしその結果として、逆にレナが犯人である可能性が高まっていく。クライマックスで圭一はレナが犯人と確信して彼女を殺してしまうが、これは葛藤を消滅させる出来事ではあるものの、葛藤の両方の望みが叶えられたことにならないから、もしこのまま話が終わっていたら名作とは呼ばれなかったろう(もっとも、アリストテレスなら悲劇の終りはこれでいいのだと言うのかもしれないが)。しかし後にシリーズ全体の結末で、読者のこの二つの望みは叶えられることになる。
  • 概していえば、葛藤の根本原因が社会問題にあるような社会派の作品の場合、すべての望みを叶えるような解決が困難になることが多い。『招かれざる客』に話を戻すと、本作もそのパターンである。黒人差別は社会の側の問題であって、登場人物たちの一存でどうにかなるものではない。敢えて妥協を避けたいなら、前提の認識そのものに勘違いがあったという方向性も考えられるが、実のところそれでは両方叶えられたというより両方叶えられなかったといった方が正確で、なお悪いようでもある。例えば黒人青年ジョンが実は結婚詐欺師だったなどということにすれば、それを知ったジョーイも結婚したいとは言わなくなるはずだが、そんな結末では観客としても納得がいかないのではなかろうか。
    こういう場合は、むしろ無理に葛藤を解決しようとするよりも、結婚を諦めるとか、あるいは結婚したけれどあまりにつらくて離婚するとかというようなアリストテレス翁好みの悲劇的な結末にしておいて、黒人差別の問題性を観客に訴えるというやり方の方がふさわしいかも知れない。そうするとハートフルストーリーとはとても言えなくなるが……

75点/100点満点

『清須会議』(2013)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 織田信長が本能寺の変で死んだとき、信長の後継者とされていた信忠も死んだだめ、事態がひとまず落ち着いた後、家臣団が清須城に集まって誰が織田家を継ぐべきかを決めることになった。これが清須会議。本作は、この史実に基づいた三谷幸喜脚本・監督の時代もの映画。
  • 清須会議では、いずれも有力な家臣である羽柴秀吉と柴田勝家とが、それぞれ自陣に都合のいい別の織田家の人間を後継者として推すことになる。そこで結局どちらに決まるのかというのが、一応話の葛藤になってはいる。なってはいるが、観客の立場からは、その結果にあまり興味を持てないというのが正直なところである。これは、観客が秀吉側又は勝家側を応援する理由が特にないからである。秀吉も勝家も結局自分の都合で動いているのでしかないからである。そしてまた、誰が後継者になろうが、結局その後天下を取るのがその人物でなく秀吉であることは日本人なら誰でも知っているからである。
  • 三谷幸喜は人間関係の描写は上手いけれど、筋を作るのはかなり下手。初期の作品は大体元ネタ作品があって大筋それに忠実に作っていたようなのでよかったけれど、最近のように史実を元にしてシナリオを書くようになってからは、史実というものが必ずしもドラマチックでないことから、あまり筋の出来が良くないものが増えたように思われる。本作もその傾向の例外ではないようである。

50点/100点満点

『ゾディアック』(2007)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 1968年から74年にかけてカリフォルニアで発生した連続殺人事件で、『ダーティーハリー』(1971)のモデルにもなった「ゾディアック事件」を題材にした話。現在も未解決ながら、ある漫画家がこの事件を詳しく調査して一冊の本にまとめたのだが、その調査の過程を描いたもの。
  • 調査することそのものを主人公の動機にしてしまったものだからドラマになってない。画面上で主人公が熱意をもって行動していることと、実際には何の関係もない人間が本を書くために調査しているにすぎないという事実とが不釣合いで、主人公の演技が不自然に見える。
    冒頭に「これは実話である」と出てくる映画にろくなものはないという法則の実例がまた一つ増えた。

『伝説巨神イデオン 接触篇』『伝説巨神イデオン 発動篇』(1982)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 西暦2300年代の遠い未来が舞台。人類は地球の植民星ソロ星で第六文明人の遺跡に残された宇宙船ソロシップとロボットイデオンを調査していた。そこへ無限の力「イデ」の手がかりを求めて別種の人類バック・フランの軍がやってきて、地球人類との間で偶発的な戦闘となる。結局ソロ星はバック・フランによって壊滅させられるが、その過程で遺跡のソロシップとイデオンが動き出し、地球人類はそれに乗って脱出する。そのとき、ひょんなことからバック・フランの高官の娘カララがソロシップに紛れ込んでいたことと、バック・フラン軍がイデオンを手に入れたいと望んだことから、ソロシップ一同はバック・フラン軍に執拗に追われることになる。地球に戻ってもバック・フランに追われているために危険すぎると受け入れを拒否されるソロシップの一同。やむなくバック・フランと戦いつつ追われつつの日々を過ごすうち、ソロシップとイデオンは無限の力「イデ」で動いていること、それ自体が意思をもちソロシップにいる乳児を守るために行動しているらしいことがわかってくる。そしてまた、イデは地球やバック・フランの母星に隕石を降らせて滅ぼそうとしているらしいこともわかる。紆余曲折の末、イデオンとバック・フランは最終決戦に臨み、バック・フランの最終兵器ガンド・ロワと相打ちになるような形で両軍とも消滅。相前後して地球とバック・フランの母星も滅亡する。両陣営の人類たちは星になり、カララが身ごもっていた両人類の混血児である新生児メシアに導かれて新惑星に集結、新しい人類として生まれ変わるのだった。
  • 『機動戦士ガンダム』の富野喜幸がガンダムの直後に制作したものの、未完のような形に終わっていたTVアニメシリーズの劇場版。接触篇はTVシリーズの総集編、発動篇は完結編の位置づけ。当時の人気はいまひとつだったようだが、今となっては『新世紀エヴァンゲリオン』の元ネタの一つとして有名な作品。本作品自体は『禁断の惑星』(1956)やアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』に影響を受けているとみられる。
  • 富野自身も問題を認めているようだが、とにかく全部合わせて3時間強しかないので、TVシリーズなしに鑑賞するとストーリーについていきづらい。場面場面で何が問題になっているのか細かいところがわからない。人間関係の描写も薄いので、主要人物全員死亡という悲劇的結末の割に感慨が薄い。そもそも第六文明人って何。全然関係ない二つの星の人類がほとんどそっくりで生殖可能なのはどうして。しかしとにかく、いろいろエヴァに似ていることだけはよくわかった。

『ひぐらしのなく頃に』(同人PCサウンドノベル・2002~2006)

 今回は映画ではないがこのカテゴリで。
 「ひぐらしのなく頃に 全部パック」ダウンロード販売版にてプレイ。

  • プレイ未経験の方は、まず無料の体験版(第一話が丸々収録されている)をプレイされることを強くお推めする。一つだけ助言させて頂くと、出だしは出来の悪い日常系アニメのように感じられるかも知れないが、それは綿流しの祭が終わるまでの話。そこからは話に強く引き付けられるようになるので、それまで辛抱して読み続けるべし。なお、今から有料版を購入されるなら、筆者の購入した全部パックの内容に2014年のコミックマーケットで発表の新作が追加された「ひぐらしのなく頃に 奉」のパッケージで購入された方がいいかも知れない。
  • 舞台は昭和58年6月、中部地方にある過疎の村、雛見沢。そこへ都会から越してきたばかりの中学生、前原圭一が主人公。彼は小学校中学校兼用の村の小さな分校へ通うことになり、クラスメートの竜宮レナ、園崎魅音、北条沙都子、古出梨花らとさっそく仲良くなる。放課後教室で彼女らと室内ゲームで遊んだり、ピクニックに出かけたりして、都会の慌ただしさとは無縁にのんびり楽しく過ごす毎日。
     そんなある日、圭一は偶然、村によく撮影に来ているというフリーカメラマン富竹ジロウに出会う。それをきっかけに、圭一は雛見沢に過去ダムの建設計画が持ち上がったことがあり、雛見沢がダムの底に沈むところだったが、村民が過激な反対運動を展開した末、それを中止に追い込んだこと、またその頃ダム建設の現場責任者が殺され、犯人がまだ捕まっていないこと、反対運動との関連が疑われていることを知る。平和そうな雛見沢に似つかわしくない過去に圭一は不安を感じる。
     6月19日が来て、村の神社、通称「オヤシロさま」で村の夏祭り「綿流し」が行われる。祭りは村人でいっぱいだ。そこへ連れ立って遊びに行く圭一とクラスメートたち。そこで圭一は偶然、富竹と再会する。一緒にいた富竹の恋人で、村の診療所の看護婦でありまた村の郷土史マニアでもある鷹野三四から、圭一は気味の悪い話を聞く。曰く、この村では最近4年間連続して綿流しの晩に村人1人が死に、別の村人1人が失踪する事件が起こっているのだという。1年目の死者は以前知ったダム建設の現場責任者であり、失踪者はその犯人と目されている作業員。その翌年以降の死者と失踪者たちはみな、過去のダム建設で反対運動に協力的でなかった村人たち。それぞれの死の原因は、殺人であったり自殺であったり病死であったりさまざまだが、とにかく特定はされており、警察では互いに関係がない事件と扱われている。だが、実は村には伝説があり、それによるとオヤシロさまを怒らせると祟りがあり、それを鎮めるには人間を生贄にささげる必要があるのだという。この生贄になることを雛見沢では鬼隠しという。村人たちは村人の死はダム建設に反対しなかったことによるオヤシロさまの祟りによるもの、また失踪者は鬼隠しに遭ったものと信じていて、今年も同じ事件が起こるのか、皆が恐れているのだという。
     翌日、圭一が例によって放課後クラスメートたちとゲームに興じていると、地元警察の刑事大石がやってくる。圭一は一人大石の車に乗せられその中で話を聞くことになる。大石曰く、富竹が昨日の晩、圭一らと別れた後、自ら喉を搔き毟って自殺していたのが見つかったという。また、一緒にいたはずの鷹野は行方不明。結局5年目も祟りと鬼隠しが実現したようにも見える。しかし大石は、祟りなどというものは信じない、村人の中にこの連続殺人・失踪事件の犯人がいるのではないか、特に圭一の仲良くしている魅音をはじめとするクラスメートたちが事件になんらかの関わりがあるのではないかと以前より疑っているといい、今年転入してきたばかりの圭一に、何か気づいたことがあったら情報提供して欲しいという。
     果たして5年続いた殺人・失踪事件は祟りなのか? それとも人間の仕業か? もし人間の仕業なら犯人は誰なのか? 喉を搔き毟って自殺するとは一体いかなる原因によるものか?
  • 2002年から2006年にかけて順次コミックマーケットで発表・販売されたPCゲーム。第一話にあたる「鬼隠し編」、第二話「綿流し編」、第三話「祟殺し編」、第四話「暇潰し編」、第五話「目明し編」、第六話「罪滅し編」、第七話「皆殺し編」、第八話「祭囃し編」及びエピローグ「賽殺し編」で構成されるサウンドノベル。プレイヤーが行動を選択するというアドベンチャーゲーム的要素はほぼ皆無、プレイといってもただ読むだけの純然たるサウンドノベルである。ただ、背景と立ち絵程度の絵は付いている。
     短めのエピローグを除く各話はそれぞれ7~10時間程度のプレイ時間を要し、テレビドラマシリーズならワンクール程度の内容に相当するボリューム。それらがオムニバスというのでなくちゃんと話が続いた形で8話分以上あるのだから、大長編である。
     話のジャンルとしては悲劇に属する。ミステリー(≒嘘つき探し)要素も濃厚で、実際ミステリーもののような売り出し方もされていたようだが、本当にそう呼んでいいかについては、ファンの間に異論もあるようである。
  • 同人ゲームながらアニメ化映画化などもされた有名作。しかも、オタクカルチャーでループものを流行らせた震源地となった作品とのことで、プレイしてみた次第。各話がそれぞれ1つの歴史(ループ)に相当している。冒頭に記したあらすじは大体各ループで共通する序盤部分である。
     この作品にはギャルゲーからの明らかな影響があり、各話にメインキャラクターが設定されている。メインプロットは、その身に共通して起こるあることが描写の中心となる。
  • このゲームに限って言えば、確かに「ループ=セーブポイントからの再スタート」という考え方によくなじむと思う。というのは、原則として以前のループの記憶が主人公に引き継がれないからである。ただそうすると、いくらループしても以前と同じことが繰り返されてしまいそうなところだが、この作品では外的環境が確率的に変化するというからくりでそれを回避している。あまりアドベンチャーゲームらしくない発想ではある。ただ結局、以前のループで悪かったところを修正しようとすれば以前の記憶がどうしても必要になるわけで、終盤においては結局各メンバーにわずかながら記憶が戻る、また(以下ネタバレ部分は反転させて読んでください)ある人物だけは記憶をほぼすべて引き継げる能力を持っているという折衷的な設定になっている。
  • 本作の元ネタと思しきものはいくつかあるが、中でも元祖ミステリサウンドノベル『かまいたちの夜』(1994)の影響が少なくないように感じられた。特に、同ゲームをプレイした者を例外なく茫然とさせたことで有名な「スキーストック死」ルートの影響が大きいように思われた。この作品についてはネタバレ宣言していないので詳しくは書かないが、要はこのルートだと主人公が誤解されて仲間に殺されるのである。この相互不信による仲間同士の殺し合いというアイデアが、本作品のストーリーの基本アイデアになっている。もっともこれは、古典的悲劇のパターン通りでもある。
  • とにかくシナリオのコンストラクションが神がかり的に素晴らしい。脚本家は、古典的・アリストテレス的な意味での悲劇の詩学(作劇法)をまれに見る正確さで理解して使いこなしているように感じられた。そしてまた世界観もしっかりある。そこだけとればほとんど理想的な出来で、こういうドラマを書ける人が日本にいたとは驚きである。もっともこういう神がかり的作品というのは、いくら才能があっても、しばしば一生に一本しか書けないものではあるが…

95点/100点満点

『桐島、部活やめるってよ』(2012)【ネタバレ】

 WOWOWにて昨年放映されて録画してあったものをやっと鑑賞。

  • とある高校のバレー部のエース桐島が大会を目前にしたある日突然部活をやめ、学校にも来なくなった。一方、映画部の部長である前田はゾンビ映画の制作を開始する。そんな1週間ほどの間の、学校を舞台とした等身大の友情と恋愛とを、数人の生徒の視点から描いた青春ものドラマ。
  • オムニバス形式だった原作小説を一本に結合したようなシナリオで、全体的にははっきりとしたストーリーが存在しない。シナリオ形式としてはグランドホテル形式に近いが、視点が切り替わったときに時間も戻ることがあり、その意味ではループものに近いとも言える。また桐島なる人物は最後まで明確な形ではシーンに登場せず、不条理演劇の代表作『ゴドーを待ちながら』を思い起こさせる。
  • 桐島はなぜ部活を辞めたのかという疑問が、この話のテーマとなる。そしてその答えは最後まで明確な形では示されない。しかしヒントはちりばめられていて、おそらく「いくら部活を頑張っても、結局何者にもなれないと考えたから」というのが答えだというのが一応無難な解釈かと思う。桐島がいたように見えた学校の屋上に前田がいたことは、その屋上シーンにおいて前田が桐島を代理する象徴であることを意味する。その前田がそのような考えを述べていることは、この解釈の最大の決め手となる証拠である。少なくとも、この話の語り手である菊池はそのように解釈したはずで、さもないと最後の屋上シーンからラストにかけての彼の行動は説明がつかない。また、屋上に駆けつけたバレー部員たちの前田に対する態度も、桐島の辞めた別の理由の一つを説明しているかも知れない。
    もっとも、映画を見ている間は、むしろ桐島はいつ現れるのかの方に気を取られる。そのせいで、この話の重点が「なぜ」の問いの方にあるということを理解しにくく、話の展開の先を読みにくくなっており、それがプラスにもマイナスにも作用している。
  • 2012年度の日本の映画賞を総なめにした作品。まあ、リアリティ重視の演出もあって、確かに昨今の日本映画の中では観られる方だし、キャラクター描写など優れているところもあるので、それが不当とは言わないが……全体としては率直に言って退屈な作品で、見終わるのに1年もかかったのも一つにはそのためである。前述の疑問をもっとわかりやすく観客の関心を引き付ける謎として提示できないと、映画としての面白さが足りない。

50点/100点満点

『ゲッタウェイ』(1972)

 WOWOWにて久しぶりに再鑑賞、といっても以前観たのはTV放映された短縮版で、ノーカット版はこれが初めて。

  • 服役中の強盗犯である主人公が、仮出獄させてもらう代わりに、ある有力政治家のために銀行強盗をすることになる。主人公の妻の尽力もあり仮出獄が認められた主人公は、さっそく妻や仲間とともに銀行強盗をやり遂げる。事が済んだ後、仲間の一人が裏切り主人公は殺されそうになるが、反撃が成功し辛くもそれから逃れる。その後政治家に盗んできた金を渡そうとすると、今度はその政治家にも殺されそうになる。一緒にいた主人公の妻がその政治家を射殺。主人公とその妻は裏切った仲間と政治家の手下たちの双方に追われることになる。果たして二人は無事メキシコへ逃走することができるのか。
  • ストーリーといい音楽といい、アニメの『ルパン三世』を連想させる作品。ルパンのアニメ化は第一シリーズが1971年、第二シリーズが1977年。時期的には大体同じ頃である。
  • この話の葛藤構造はやや複雑である。基本的には奪った金を誰が取るべきかという問題で、(1)主人公 (2)主人公の妻 (3)銀行ないしその代理人的立場にある警察 (4)主人公を出獄させた政治家ないしその手下 (5)裏切りはしたが仕事をした仲間 などに少なくとも幾分かの権利がありそうであり、それらの権利に対応する主人公の金の引き渡し義務が葛藤になっていると見ることができる。そしてさらに、主人公を出獄させるために尽力した妻のために捕まることなく逃げ切る義務がこれらに対立する。この話の筋では、(3)についてはもともと頭取の不祥事隠しのために仕組まれた強盗だったから返されても困るという理由で、(4)と(5)については権利者が正当防衛により死亡したのでもはや引き渡す義務が消滅したという理由で、それぞれ解決され、(1)と(2)について、及び逃げ切り義務については、結末において二人でメキシコへ逃げ切ることで解決されている。
  • それにしてもあの裏切った仲間が延々付いてきて最後に主人公にあっさり倒される筋は必要だっただろうか。以前見たときもこれは要らないと思ったが今度もやっぱり要らないと思った。