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『たったひとつの冴えたやりかた』【ネタバレ】

 マンガじゃなくて古典SF小説。旧訳版にて。

  • 泣ける結末を持つ小説として有名らしい。
  • 簡単にあらすじを紹介すると、行方不明者を追って宇宙船で冒険に出かけた少女が、その途中、たまたま拾った病原体のようなエイリアンに「感染」し、脳に取りつかれる。少女とエイリアンは束の間友人になるのだが、結局はエイリアンには取りついた者の脳を食い尽くしてしまう習性があるうえ、強い感染性もあることがわかり、そのエイリアンともども太陽に突入して自殺するという話である。
  • ということで、おそらく自殺するというところが泣き所なのだろうが、残念ながら筆者にはちっとも悲しく感じられなかった。おそらくこれは、主人公の行動の動機に説得力が乏しく共感できにくかったことと、エイリアンのことを友人のようには思えなかったことが原因である。
  • そもそもおよそ物語においては、誰でも人が死ねば即ち悲しいというものではない。そうなるためには死んだり別れたりする者のことを観客が愛していることが必要である。而して観客が愛する者は、観客を愛する者である。といっても、物語には観客自身は登場できないから、実際には、観客と理念を共有し一体感を持って観客に代わって物語中で行動する者(通常は視点人物)を愛する者を愛することになるのである。この視点人物を愛する者のことは主人公という。この話でいうと、作者の意図としては、視点人物が少女、主人公がエイリアン、ということになるはずだったのだろう。
  • だがこのエイリアン、口先では少女を大事にするようなことをさかんに言うのだが、実際にしている行動を見ると、ちっとも友人のようでないのだ。特に脳を食べてしまうのはその最たるもので、自身が説明するところによると、このエイリアンの種族の年長者たちであるところの「師匠」に指導されれば食べないでも済む(しかし今ここに師匠はいないので食べざるを得ない)ということらしいのだが、師匠に言われれば食べないなら友人のためにも食べないべきだろう。
  • また泣ける原因として、感動の涙というものもあり得る。この場合、少女の自己犠牲により人類が感染を免れたということが感動のポイントになるということなのだろう。しかしこの話だと、感染してしまった以上どちらにせよ少女は死ぬので、立派な行為には違いないが自己犠牲というべきか微妙なところではないか。

『家族』(1970)

 NHK BSPにて鑑賞。山田洋次原作・監督。

  • 脚本面では、基本的に性格描写のためのエピソードをつなげた串ダンゴ型の話で、性格描写は手段であって目的ではないと主張するアリストテレス型ドラマ観とは相容れないプロット。全体を貫く主人公の義務や因果関係(本筋)が希薄なので、全体として物語が何を主張しているかが明確でなく、また結末のつけ方も曖昧である。アリストテレス的ドラマ観に立ってこの話の本筋を解釈すると、父や母が家族を守るべき義務を負っていることを前提に、その目的に反する二人の死が「不幸な結果」(メタバシス)と把握され、それを齎した原因となる人間の行為たる過ち(ハマルティア)が追究されることになる。しかしこのプロットだと、それらはほとんど偶然の産物で、敢えて言うなら乳児や老人を長旅に連れ出したのがいけなかったということになるが、まさかそれがこの話の主張の眼目ではあるまい。しかも主人公の父母はその結果最終的に幸せになっているのである。
  • 一方、アリストテレス型ドラマ観でも、補助的な筋としての性格描写のためのエピソードでは、ある状況において人物がどのような行動を選択するかを描写することが目的となるので、その状況がどのような原因から生じたかは問題とされない。いわば状況はエピソードの前提条件(設定)として理由の説明抜きに天下り式に偶然に与えられる。串ダンゴ型ドラマは、初めから終わりまでこの種のエピソードを次々繰り出すだけで押し通すので、アリストテレス型ドラマ観にいう本筋が脆弱である。
  • この種の構造は喜劇に典型的に見られるもので、喜劇型ドラマと表現してもいいかもしれない。山田洋次が男はつらいよという喜劇を作り続けてきた脚本家であることは偶然の一致ではあるまい。
  • とはいえ、やはり魅力的な人物像が描かれているので、これはこれでありかなと思わされる。実際、典型的な日本のドラマはたいていこういう構造である。ただ、個人的には物語の価値の半分は結末にあると思っていて、やや無理矢理な結末になりがちなこの種の筋にはどうも消化不良を感じてしまうのである。
  • 現代の観客にとってのこの映画の最大の見所は高度成長期の日本の姿だろう。これは興味深く見た。全体的に見て経済的には発展途上だが、地方に今より活気があるようだったのが印象的であった。中標津駅なんて今はもう存在しないのだから。

70点/100点満点

『ゴールデンスランバー』

 WOWOWにて鑑賞。

  • まず初めに言っておきたいことは、ビートルズの楽曲の使用料が高いなら、そのお金が貯まってから製作すべきだということである。どうしてもその金が用意できないなら、その人にその作品を撮る資格はなかったということである。わざわざこういう作品を原作に選んでおきながらビートルズの音源は使えませんでしたというのは本来許されない話である。最近の邦画界はこのあたりの意識がルーズになっているようなので苦言を呈しておく。
  • この話を一言で言うと、かつての仲間たちとの絆に助けられる逃走劇なのだが、逃走劇としての部分はまずまずよくできているものの、絆を描く作品としてはどうも薄味である。そういう作品ならラストシーンがもっと印象深くなるはずなのだが、そうなってない。単に大学時代よくつるんでいたとか、付き合っていたとかというだけではあまり強い絆とは言えないからだろう。また、かつての仲間とは関係ない人々にも大いに助けられるのは一貫していない。特にあの通り魔は、少々都合がよすぎる存在である。
  • 回想シーンの使い方は上手いとは言えない。そもそも、なぜ回想という手法がしばしば退屈だと言われ避けられる傾向にあるかというと、そのとき観客が知りたいと思っていない情報を無理に与えようとするからである。回想を使いたいならここのところをうまく処理しなければならない。もっとも、過去に何があったかを現在の状態(の描写)で示すのが物語の本来のあり方で、そもそも回想は物語にとって必要不可欠な表現手段ではない。現実世界でわれわれが過去を理解するとき、「回想シーン」に頼ってはいないのである。
  • 最後、死体が上がったのはどういう経緯なのか? 本来なら撃たれた後の主人公の行動は観客に対して隠しておいて、ミステリアスに処理しなければならないのではないか。プロットが混乱しているように思われる。
  • 以上、苦言が多くなったものの、最近の邦画としては見れる方と言っていいだろう。

65点/100点満点

『孤独のグルメ』(TVドラマ)第5話「杉並区永福の親子丼と焼うどん」

  • 相変わらず、店についてはよくこんなとこみつけたなと思うし、B級の料理も旨そうである。
  • 演出は、前回と比べるとやや持ち直した感あり。ただやっぱりピントが甘い場合がある。もうこれはたぶん演出っていうより単純に合わせそこなってるんだな。
  • ここまで4話ほど見てきたが、やっぱりこのシリーズは、半分は松重豊の演技力で持っているようなものだと確信。
  • 脚本について。この作品はデッドパンな喜劇としての側面を持っていて、特にこのTVシリーズでは、原作と比べてその側面を強調する方針のように見えるのだが、残念ながらどうも滑稽味が上手く出ていないようである。今回の話でも、釣り堀の男性をピエロ役にしようとしているようなのだが、あまり笑えなかった。
  • 滑稽味が何に由来するかというのは作劇理論における一大問題だが、少なくとも、笑われるべき人が、単に何か面目を失ったりひどい目にあったりといった損害を被ればいいというだけのことでないというのは確かである。おそらく、そういう結果も必要なのだが、そのほかに、それが本人の見込み違いの決断に基づく行為から生じたという因果関係も必要なのではないだろうか。そしてまた、それだけでなく、その決断が、一つの選択肢としてあり得なくはないものの、しかし観客ならば実際にはそのような選択肢は選ばないと思えるようなものである必要もあるものと思われる。一般に喜劇を書くのが難しいのは、おそらくこの「あり得なくはないが自分ならしない」という条件が非常に狭く厳しいためだろう。そしておそらく、自分ならしないのにあり得なくはないと思う場合というのは、「そういう人っているよね」と思えるような場合である。原作はこのあたりが上手かったのである。
  • なお、失敗をもたらすような行為が、自分だったとしてもそうしたと思えるように描写されたならそれはシリアスドラマである。自分だったとしたらそうはしなかっただろうし、そもそもそんな選択をする人がいるとは思えないということなら、それはもはやドラマではない。また、そのような行為からそのような失敗が生じるとは思えないときもやはりそれはドラマの体をなしていない。今回の話は2番目のケースに近いが、そもそもなんのつもりで釣り堀の男性がああいうことを言っていたのか自体がわかりづらかった。
  • また細かいことだが、冒頭のフラッシュバックは、それが前日のことであるということが少しわかりづらかった。今回のケースでは、フラッシュバックの冒頭に

    五郎の声「俺は昨日、1週間前に注文をもらっていたあるクライアントに呼び出された」

    などと一言説明を入れておくとわかりやすくなったはずである。

  • ところで、このTVシリーズとは関係ないのだが、NHK BS1(本来は、NHK WORLD)にて放送中のTOKYO EYEで、赤羽と十条が今週のテーマとなり、あのまるます家が取り上げられていた。残念ながら最近Webの方には過去分の動画をアップロードしてくれなくなったようなのだが、再放送もあるようなので興味のある方は是非。外国人向けの英語放送だが、英語は比較的易しいので、英語を勉強中の日本人にもおすすめの番組である。でも、一応東京出身のはずの司会のクリス・ペプラーの英語が一番聞き取りにくいのはどうしたわけだろう。

風刺

 かの手塚治虫氏はマンガの本質を風刺だと喝破しておりましたが……
 まあ結局ですね、ドラマというものの二大分類について言えば、観客から見て、風刺されているのが自分自身だと感じるようならシリアスドラマ、他人が風刺されていると感じるようならコメディなんですよ。そして誰も風刺されてないようなものはドラマではない。
 風刺というのは、描写(再現・ミーメーシス)を用いた遠まわしな批判です。

アリストテレスは三幕構成を主張したか

 ハリウッドの世界だともうシナリオは三幕構成というのが金科玉条のごとく守られているようなイメージがあります。で、シド・フィールドあたりのハリウッド系のシナリオテキストを見ると、しばしばこの三幕構成はアリストテレスも主張してることだみたいなことが書かれていたりします。
 しかしこれは本当でしょうか。確かにアリストテレスは悲劇は「始め」「中間」「終わり」の3要素を持ってないとダメだという趣旨のことを述べてはいるのですけれど、これらがそれぞれ幕を構成するなどとは言っていません。

 すでにわたしたちは、悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した一つの全体としての行為の再現である、と定義した。
(中略)
 全体とは、初めと中間と終わりをもつものである。初めとは、それ自身は必ず他のもののあとにあるものではないが、そのあとには本来他のものがあったり生じたりするところのものである。反対に、終わりとは、本来それ自身は必ず、あるいはたいてい、他のもののあとにあるものだが、そのあとには何もほかにないところのものである。また中間とは、本来それ自身も他のもののあとにあり、それのあとにも他のものがあるところのものである。
 それゆえ、巧みに組み立てられた筋は、勝手なところからはじまることも、勝手なところで終わることも許されず、いまあげた形式(初め、中間、終わり)を守らなければならない。
(アリストテレス著『詩学』(松本仁助・岡道男訳)7章)

 これが原文です。アリストテレスの著書の例に漏れずなにか禅問答のようでもありますが、「幕」もしくはそれと同等の言葉はまったく出てきていません。ではこれらは何を意味しているのかというと、私見によれば今日にいうところの「原因」「因果関係」「結果」のことを言っているのだと思われます(ご興味のある方は、アリストテレスのこうした言葉遣いについて『形而上学』の2巻2章もご覧ください)。
 なお、これは有名な「三単一の法則」のうちもっとも本質的とされる「行為の単一」の元になった記述でもあります(もっとも、この後の8章の方でも大きく取り扱われていますが)。

 ところで実はアリストテレスは別のところで悲劇の構成について触れているのです。

すべての悲劇には、出来事の結び合わせの部分と、解決(解きほぐし)の部分がある。劇の外におかれていることがらと、多くの場合、劇のなかで起こることがらの若干のものが、結び合わせの部分であり、残りは解決の部分である。わたしのいう結び合わせとは、始まりから運がよいほうへ、または悪いほうへ転じる直前のところまでのことであり、解決とは、この変転の始まったところから結末までのことである。
(前掲書18章)

 これを読めば、実際にはアリストテレスは2部構成を主張していたことがわかるでしょう。

二重の筋

 アリストテレスは『詩学』の13章で、二重の筋、つまりある人には幸福がもたらされ別のある人には不幸がもたらされるような悲劇を否定し、単一の筋、つまり主人公が不幸になるだけの話でなければならないとしていますけれども、これは正しいでしょうか。どうも私には疑問に思われます。
 アリストテレス自身も名を挙げている『オイディプス王』を例にとると分かり易いと思うのですが、この話では、それとは知らず主人公オイディプス王は自らの母親と結婚して子を儲けてしまい、それが原因で自らの統治するテバイに(神の怒りを買って?)災いを呼んでしまったということで、結末で自らテバイを出て行くことになります。
 確かにこの話では主人公オイディプス王自身は不幸になってます。しかし同時に、災いの原因たるオイディプス王がテバイを出て行くことで、テバイの民は幸福になっているのではないでしょうか。これはまさに二重の筋そのものではないですか。
 要するに悲劇というのは、観客から見た場合、主人公が我々のためになることをしてくれたのに報われることがなくてかわいそう、ということでなければならないわけですから、その意味で自然に二重の筋になってしまうはずなのです。
 いや、アリストテレスの言っているのは悪人と善人が出てくるようなタイプの話なのだ、と限定的に捉えることでアリストテレス理論を救済することは確かに可能ですが、それにしても言っていることが紛らわしいという批判は可能なように思われます。

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恐れとあわれみ

 レッシングはアリストテレスの悲劇の定義(の一部)の「恐れとあわれみ」を「恐れと不安」に読み替えていますけど(参考: 以前のエントリ)、最近やっぱりこの読み替えはちょっと違うんじゃないかという気がしてきました。
 つまりレッシングは自分にも同様の苦難が降りかかる可能性こそが観客にとって悲劇が他人事でなくなる原因の唯一の本質だと考えているようなんですけど、それはそれで一種のホラー型ストーリーにおいてありうるとして、あわれみのほうはもう少し他人の行為についての倫理感と関係したそれとは別のストーリー形態について言っているような気がするのですね。