『ひぐらし』第一話のお疲れさま会で、祟りによるものとしか思えない事件が過去にいくつも起こっていたにも関わらず、ほとんどの読者(テストプレイヤー)が劇中世界における祟りの実在を信じていなかったと報告されていたが、これはもっと祟りの実在を支持する読者が多いことを予想していた作者の竜騎士07氏にとっては深刻な問題であったはずである。一体どうしてこう解釈されたのだろうか。なお、もちろんこの問題は地の文で祟りの実在が直接描写されていないことが前提の話である。
祟りは現実世界に実在しないからというのではもちろん答えとして十分ではない、だって劇中世界はフィクションなのだから祟りが実在したっていいはずではないか。氏はその後この点についての結論として、『うみねこ』の中で「登場人物の中に一人でも疑っている人間がいる限り、その物語世界内に幻想的な事実が実在するとは解釈されない」という説を(登場人物たちの口を通して)披露した。この説は『うみねこ』シリーズのプロットの中心的構成原理として使われている。だがこの説は本当だろうか。怪談ものなどで、幽霊の存在を信じない「愚かな人間」が不審な死を遂げるといった話はいかにもありそうではないか。疑っている人間がいるだけでは幻想的設定が否定されることにはならないのではないか。
これはやはり、祟りが実在したという結論になったとしたときに読者がそれに納得できるか、そういう状態にあるかどうかが大事なのではないか。第一話の場合、すべてを祟りで説明しようとしても説明しきれないところが残ってしまう。例えば鬼隠しについての詳しい説明はこの時点では出てきていないから、失踪が説明できない。富竹が殺されたとき人間に囲まれていたという件もそうだ。また、二人が圭一を襲ったときの手段が注射器であったというのも祟りよりも科学的な手段を暗示する。
「登場人物の中に一人でも疑っている人間がいる限り、その物語世界内に幻想的な事実が実在するとは解釈されない」というのは、幻想的実在を肯定しようとすると無理が生じる状況では、その結果として登場人物の方にも納得できない人間が出てくるということに過ぎないのではないか。
「映画」カテゴリーアーカイブ
『フライトプラン』(2005)
WOWOWにて途中まで鑑賞。
- 『バルカン超特急』(1938)の、その舞台を航空機内に移した、実質的リメイク・脚色作。プロットやミステリーの構成はほぼそのままで、アリストテレスならこれらは同じドラマだと言うだろう。。また『バニー・レイクは行方不明』(1965)とも似ているとの由。前者の著作権は切れているとはいえ、脚本のクレジットはオリジナル脚本を示す”written by”となっており(脚色作では原作者を”story by”、脚色者を”screenplay by”と分けてクレジットすることになっている)、どうも印象が悪い。そんな風にそれなりによくできた原作をパクって書かれたシナリオであるにも関わらず出来が悪いので、途中で見るのを中断。
- 一点だけ指摘しておくと、観客としては主人公を信じるべきか周囲の人間を信じるべきかという肝心のミステリーがオリジナルと比べて弱まっている。バルカン超特急では主人公が頭を打っていた上に、周りの人間がはっきりそんな人間はいなかったと断言していたので明確に矛盾していて、いかにも謎らしい謎として成立していたのに対し、この作品では主人公に特に錯乱する理由が見当たらず、また単に娘が乗客名簿に載ってないというだけなので、じゃあ誰かが名簿から削除したんだろうという解釈で解決してしまって謎として成立していない。またバルカン超特急では、もし同行者の実在が本当だったなら、主人公はウソつきたちに囲まれているということになるので、そこからちょっとしたサスペンスが生まれていたが、この話では周囲が本気で娘の不存在を信じているだけなのでそれがない。
『刑事コロンボ 別れのワイン』(1973・TVドラマ)
BS TBSにて久しぶりに再鑑賞。
- 父から受け継いだ名門ワイナリーでワイン一筋の人生を歩んできた兄が、安物ワインを大量生産する大衆ワインメーカーにそのワイナリーを売却しようとした弟を殺してしまう。倒叙ものミステリの代名詞刑事コロンボシリーズの中でも印象深い一本。
- 倒叙ものは犯人に対していかに共感を感じさせるかの勝負である。観客が犯人側に立つからこそコロンボに追いつめられるスリル(サスペンスないしパトスと呼んでもよい)を味わうことができるのだからである。この話で観客が犯人に共感するポイントは、経済原理に抗して伝統の職人気質を守ろうとする信念である。1973年の作品だが、この信念への観客の共感は今なお変わりない。ワインという題材そのものが変化の穏やかな分野であることもあるが、今見ても古さを感じさせない作品であった。
ひぐらし再訪【ネタバレ】
ここのところ『ひぐらしのなく頃に』を復習している。
振り返ってみると、シリーズ前半の出題編3話で起こった事件は、大半が本筋である鷹野の陰謀とほとんど無関係であった。鬼隠し編で圭一が魅音とレナを殺してしまうこと、綿流し編で魅音が佐都子や梨花や詩音を殺してしまうこと、祟殺し編で圭一が鉄平を殺してしまうことは、いずれも鷹野らが計画したことではなく、また鷹野らの陰謀がなければ起こらなかったとも必ずしも言い難いものであり(過去4年間綿流しの日にストレスから雛見沢症候群の重症者が発生して殺人を犯したり自殺すること自体は鷹野らにかかわらず自然に起こっていた、また祭具殿への侵入は鷹野の個人的興味により陰謀がなくても行われ得る、との解釈を前提とした場合。ただ5年目の殺人と失踪だけは鷹野の陰謀と若干の因果関係を認めざるを得ない)、鷹野からみて偶然に近い。これらは精々、雛見沢症候群という共通の原因を持っているという程度の関係にしかない。
共通の原因をもっている以上不自然な偶然とは扱わないというのがドラマの世界のお約束である。ミステリーはこのルールに大きく依存している。だからこれらの後に鷹野の陰謀が出てくることは一応不自然ではないものと扱うことになる。連続失踪の方は鷹野の陰謀の結果でもあったし。しかし描写されるものという観点から見た場合、シリーズ前半で描写されるのは主に雛見沢症候群の危険性であって、鷹野の陰謀の危険性ではないということになる。これは本筋から外れているのではないか。読者をミスリードするという方向に偏り過ぎているようにも思われる。推理小説はこういうものなのだろうか。
実は、鷹野の陰謀という要素は比較的後になってから追加されたのではないかとする説がある。もしシリーズから鷹野の陰謀という要素を除去し、入江あたりが雛見沢症候群が真の問題だと突き止めてめでたしめでたしで終わるような話にシリーズを書き換えたとすると、上で述べたような問題は大幅に軽減される。ひょっとすると、元々の構想はそのようなものだったのかも知れない。
またダム建設計画が雛見沢に持ち上がったことは読者や圭一をミスリードする上で重要な役割を果たしたが、これは雛見沢症候群とは共通する原因すらない純然たる偶然である。ドラマにおいて純然たる偶然を完全に排除することはできないが、偶然が増えれば増えるほど実現確率が下がり、描写の強さが弱まる。鬼隠し話で言えば、雛見沢症候群が危険だといっても、圭一の殺人はダム建設計画という偶然がなければ起こらなかったということになるから、雛見沢症候群が危険だという描写を弱める方向に働く。もっとも、偶然だったということは最後まで読まないとわからないから、読んでいる途中にはあまりそう感じさせない構成ではあるが。
ドラマの主題とは結局その中で起こる出来事の共通原因のことなのだろうか。そうであるような気がしたこともあるし、そうでないような気がしたこともある。
とにかくこの主題というのは作劇における呪いのような概念である。
『ゴーン・ガール』(2014)【ネタバレ】
WOWOWにて鑑賞。
- 浮気した夫を懲らしめようと、夫が妻を殺したような証拠を捏造してばらまいておいた上で失踪するサイコ妻。
- 言ってしまえばそれだけの話なのだが、尺が2時間30分近くありとにかく長すぎる。しかも話が動き出すまで1時間以上かかっており構成面でまったく褒められない。この内容なら2時間弱に納められたはずである。長編にしたいなら前半は別の容疑者を立ててミステリー仕立てにするなりしないとダメだが、このシナリオだと夫が犯人でないことを初めにはっきり描写してしまっているしその他に特に容疑者もいないので、ミステリーとしても成立してない。
55点/100点満点
『夕陽のガンマン』(1965)
NHK BSPにて鑑賞。
- クリント・イーストウッド主演の西部劇。しかしアメリカ映画ではなく、いわゆるマカロニ・ウェスタン、すなわち1960年代半ばから70年代前半にかけて流行した、イタリアで作られた西部劇である。マカロニ・ウェスタンの巨匠と呼ばれるセルジオ・レオーネ監督作で、マカロニ・ウェスタンの代表作の一つ。アメリカで製作されたものでないとはいえ、クリント・イーストウッドをはじめ役者はみな英語をしゃべっているし(妙にはっきり発音しているのでリスニングしやすい)、見た目もアメリカ映画と遜色ない、西部劇らしい西部劇である。
- 演出はよくできている方だと思うが、シナリオ面はほどほどといったところ。一番大きなところでいうと、これはどうもマカロニ・ウェスタンに共通する特徴らしいのだが、人物描写の重点を個人的能力のほうに置きすぎて、倫理的性格(人間関係)の描写の方がお留守になっているようである。このために、主人公たちがそれほど魅力的に見えず、また敵役がそれほど憎むべき悪人に見えない。また、プロット面でも、比較的葛藤の乏しいまま話が進行するので、ストーリーの先行きにあまり興味が持てない。主人公たちの能力の見せ場であるシューティングのアクションシーンには見ごたえがあるので、誰でもある程度楽しめる作品にはなっているが、それ以上のものがないようである。
65点/100点満点
『レベッカ』(1940)
dTVにて鑑賞。
- ヒッチコックが渡米後に撮った第一作。ヒッチコック作品唯一のアカデミー作品賞受賞作。ちなみに有名な話だが、ヒッチコックは監督賞は一度も取っていない。
- dTVで見られるヒッチコック作品ということで(よそでも見られる著作権切れ作品が中心なので、ヒッチコック作品目当てでdTVに加入するのはお勧めしない)、何の気なしに鑑賞してみてびっくり。こりゃまず間違いなく『うみねこのなく頃に』の元ネタの一つだ。なにしろ洋館だの壁に掛けられた肖像画だのベアトリーチェ(英語映画なので劇中での発音は「ベアトリス」)だの、見覚えのあるモチーフがゾロゾロ出てくるのもそうだが、なんといっても「愛情のもつれの末に使用人が洋館に火を放って自殺する」という結末が『うみねこ』そっくりである。『うみねこ』でヤスが島を爆破した動機は十分に描かれず、世間でもそれが度々批判されていたが、この『レベッカ』を見てほんの少し理解に近づいたような気がする。
- この作品そのものの出来はあまりよくないというか、ミステリーでもサスペンスでもないので、ヒッチコックらしい作品を期待してみると肩すかしを食わされる。ただ、『めまい』あたりの原型のような話でもあり、そういう意味ではヒッチコックらしさがないとも言い切れない。ともかく、話のはじめの方ではっきりとしたテーマ・問題が提示され、それについてストーリーが進んでいくという構成の話ではない。いったい何に興味を持てばいいのかよくわからないままに話が進む。その意味で少なくとも筆者好みのシナリオではない。
50点/100点満点
『バルカン超特急』(1938)
WOWOWメンバーズオンデマンドにて鑑賞。
- 結婚を控え、ヨーロッパのとある小国へ友人たちとともに独身時代最後の旅行に出かけていた主人公アイリス。日程を終え、駅で友人と別れてフィアンセの待つロンドンへと旅立つ特急列車に乗り込もうとした彼女は、老女フロイがカバンが見当たらないとホームを探し回っているのに気付く。アイリスはフロイを手伝って一緒に探してやるが、その際駅舎の上のほうにある窓から落ちてきた植木鉢で頭を打つ。フラフラになりながらもフロイに助けられつつかろうじて列車に乗り込んだアイリスは、その直後気を失ってしまうが、やがて気が付いたときには6人がけの車室にいた。目の前の席にはフロイ、その他の席には知らない乗客が都合4人。フロイがここまで連れてきて介抱してくれたようだ。アイリスとフロイは通路を通って食堂車へ行き、ともに紅茶を飲む。フロイはかの国で家庭教師をしていた英国人で、イギリスに帰国するところだという。たまたまその食堂車に居合わせた英国人男性二人とちょっとしたやり取りなどがあったあと、二人は座席に戻る。アイリスはやがてうとうととするが、目を覚ましてみるとフロイはいなくなっていた。アイリスが他の乗客たちにフロイはどこに行ったのか聞いてみると、皆フロイなる人物は元々いなかった、目の前は空席だったとおかしなことを言う。食堂車に戻り、給仕に聞いてみても、アイリスはさっき食堂車に一人で来た、フロイなる人物は知らないという。伝票にも紅茶1杯の注文しか書かれていない。アイリスは列車中を探し回り、フロイは見つからなかったものの、出発前の宿でたまたま知り合っていた英国人ギルバート(前に食堂車で会った二人とは別)と再会する。ギルバートは一緒にフロイを探してくれるようだ。元の車両に戻って、別の車室の乗客や、さっき食堂車にいた二人の英国人にもフロイのことを聞くが、覚えていないという。同じ車両に乗り合わせていた脳外科医ハーツはその経緯を聞いて、頭を打つと記憶が混乱することがあると話す。
果たして、本当にフロイは実在せずアイリスの記憶違いに過ぎなかったのか。それとも乗客や給仕たちが示し合わせて嘘をついているのだろうか。もしそうだとしたら一体何のためにそんなことを? そしてフロイの行方は? - 英国時代のヒッチコック後期の作品。ミステリーよりサスペンスを好んだと言われるヒッチコックにしては珍しく本格ミステリー風な出だしのプロットなのだが、実は上で説明した序盤のあと、すぐにアイリスの記憶違いではなかったことが観客に開示される。その辺りはやっぱりヒッチコック流である。ただこの作品に限って言えば、アイリスが誰かに狙われているというわけでもなく、情報を早く開示したことがサスペンスにつながっていない。その意味であまり成功していないと思う。やはりヒッチコックの全盛期はアメリカに渡ってからで、英国時代はまだ粗削りである。
- よくできたドラマでは、「どうやら話が本題に入ったらしい」感じがする時点というのが存在するものだが、この話ではフロイが消えた時点がそれに相当する。本題に入るというのが具体的に何を意味するかの一般的ルールはあまり明らかでないが、大まかに(1)動機(パトスないしメタバシス)の発生で説明する (2)テーマ(葛藤)の提示で説明する の2つの方向性が考えられる。この話を見る限りでは(2)が有望なように思える。
65点/100点満点
画質はあまりよくないが、著作権切れのためYouTubeでも鑑賞可能。
『24 -Twenty Four- (Season 1)』(2001-2002・TVドラマ)
dTVにて鑑賞。
- アメリカ民主党の大統領候補予備選挙の当日、深夜0時からの24時間を、リアルタイムで描くという体裁のTVドラマシリーズ。1話につき劇中の時間で1時間進む(CM部分等があるので正味の尺は40分強)。もともと13回シリーズの企画だったのを好評につき24回に延長したそうで、話の中身は13話までの前半とそれから後の後半で分断されている感じ。というより、前半部分でいったん終わった話を後半で再度繰り返しているように見える。
- プロットは、主として3つの筋が同時進行で進む形で、前半部分の内容を中心に紹介すると次のようになる。
- アメリカのテロ対策政府組織CTUは、この日行われる民主党の大統領予備選挙の有力候補者デイビッド・パーマー上院議員が本日暗殺されようとしているという情報を掴み、テロリストの関係を中心に捜査を始める。一方で、CTUの主任捜査官であるジャック・バウワーは、CTUの局長ウォルシュから、CTU内部にこの件の内通者がいるらしいからそれが誰か突き止めて逮捕しろという極秘命令を受ける。果たしてジャックは内通者とテロリストを逮捕することができるのか。
- ジャックの娘キンバリー(キム)は深夜、友人のジャネットとともにこっそり家を抜け出し、男子たちとの合コンに行く。それに気づいた妻のテリーはジャネットの父とともにその行方を捜す。しかしそれらは罠だった。結局キムとテリーはテロリストの人質になってしまう。その狙いはジャックを脅してパーマー候補を暗殺させるためだった。果たしてジャックは、パーマーを守りつつ、かつ家族も取り返すことができるのか。
- デイビッド・パーマーの息子キースは、7年前に姉のニコールをレイプしようとした男を窓から突き落として死亡させたことがあったが、母のシェリーが方々に手を回した結果、それは事故死として処理され、真相はデイビッドに知らされなかった。ところがここにきて、著名ジャーナリストのモーリーンがこの疑惑を嗅ぎ付け、大統領予備選が行われるこの日の朝のニュースで報道するという情報が入る。キースのしたことは、正当防衛ないし過剰防衛が認められる可能性があるし、デイビッド自身は知らなかったことではあったが、これが報じられれば優勢だった選挙情勢が一気に逆転する恐れもある。デイビッドは、妻が事件を隠ぺいしたことに怒るとともに、選挙への影響を最小限に食い止めるため、報道より前に自ら事件を公表し謝罪しようとする。しかし妻シェリーはそれに反対し、有力な選挙支援者たちに依頼してモーリーンに圧力を掛け、また事件の証人を殺し証拠を隠滅して、報道を止めさせることに成功する。だがキース本人はこのやり方をよしとせず、すべてを認めて自首しようとし、デイビッドもそれを支持してこの件を公表しようとするが、シェリーと選挙支援者たちはそれを止めさせようとする。果たして事件は闇に葬られるのか。そしてパーマーは選挙に勝利できるのか。
- 昔だいぶ話題になったシリーズなので観てみたが、期待したほど面白くないというのが正直な感想である。上述のあらすじで、「果たして~」の形式で表したものが、それぞれの筋の表面的な意味でのテーマということになるが(相反する可能性が示されることでテーマ=謎が提示される)、この意味でのテーマに観客がどの程度関心を持つことができるかでドラマの大体の面白さが決まる。そして、第2の筋のテーマにはそれなりに関心を惹かれるように作ってあるが、第1第3についてはそうでもない。観客からすれば赤の他人である登場人物の身の上に起こることに関心を持たせるには、同じ状況に置かれれば観客の身にも同じことが起こりそうであり、かつ結果が重要であることを示す必要があり、そのためには多くの場合、事件の被害者がいかにもっともな行為をした結果被害を受けたか、そしてそれがいかにあり得ることであるかを示すことが必要である。第2の筋では、被害者である2人がどのようにして誘拐されたか、そしてどのような危険に晒されているかが比較的丁寧に描写されているのに対し、第1第3の筋ではそもそも被害の内容からして曖昧である。内通者がいたら、あるいは事件が闇に葬られたら具体的に誰がどう困るのか、よくわからないままに話が進む。内通者がいたところで犯人の具体的目星もついていない状態では特に害はなさそうではないか? デイビッド自身が殺したわけでも隠したわけでもないのだから大統領にふさわしいかとは本来無関係な話で、事件が明らかになろうがなるまいがどちらでもいいのではないか?
- シリーズ前半は、情報を隠そう隠そうとして失敗した感があり、どうも退屈なシーンが多かった。後半はそこが改善され、示すべきことは示す方針に転換したようで、その分見ていて退屈しなくなった。例えばシリーズ後半、テリーを捕り逃したテロリストたちが、どこを探しても見つからなくて困った挙句、待ち伏せしてやろうと彼女の自宅へ向かうのだが、一方、記憶喪失になりそこまでの記憶をなくしたテリーが、馴染みの医師に自宅に送ってもらう、という下りがある。もしシリーズ前半のセンスで脚本家がこの下りを書いたとするなら、「テロリストたちがテリーを待ち伏せしようと自宅へ向かう」部分は省略して観客に隠しておいて、何も知らずにテリーが自宅について腰を落ち着けたところで突然テロリストに襲われるというプロットになっただろう。だがこれではよくない。サスペンスが成立しないからという言い方もできなくもないが、それよりも、これではテリーが自宅でテロリストに襲われたのはノコノコ自宅に戻ってきたからだという因果関係が表現されないからである。
- しかしそういう細かい点もさることながら、一番根本的な問題は、この物語に実質的な意味でのテーマがないことのように思われる。ここでいう実質的テーマとは、現実世界に通用するような疑問、ないしはそれに対する答えのことである。実質的テーマを持たない作品は、観客にしてみれば、最後まで見たら何か常日頃知りたいと思っていたことへの答えが得られそうだという期待が持てないし、実際話が結末を迎えても何かしら意義あるものを得たという実感がない。ドラマにこういう意味でのテーマは必要ないという人もいるが、それでは子供だましの話になってしまう。それが通用するのは、対象年齢層の低いマンガ業界くらいのものである。観客の年齢が上がれば上がるほど、得るところのない話を観るのが馬鹿馬鹿しくなる。昔から言われる名作の条件「おもしろくてためになる」の2つの要素はやはり両方とも必要なのである。この作品には、というかアメリカのTVドラマは大抵そうなのだが、「ためになる」の要素が薄い。
『太陽を盗んだ男』(1979)
- とある高校の冴えない理科教師である城戸が、プルトニウム化合物の溶液を原発から盗み出し、自宅でそこから精製したプルトニウムを使って原子爆弾を制作することに成功。警察に脅迫電話をかけて日本政府に対し様々な要求を繰り出す。その内容は、プロ野球のTV中継を試合終了まで延長しろだの、ローリング・ストーンズの日本公演を実現しろだのという奇妙なものだったが、実現しなければ原爆を爆発させるというので、日本政府はそれらの実現のため東奔西走する。事件を担当することになった山下警部は、果たして城戸を逮捕することができるのか、という話。
- 純然たる娯楽アクション大作で、子供にはちょっと難しいかも知れないがだいたい誰が見ても楽しめる出来。芝居もいいし、爆薬の量もまずまず。昔の邦画はよかった。
- プルトニウムを盗むところはちょっとウソ臭かったが、その後の原子爆弾の制作過程がなかなかリアルな感じ。Wikipediaによると、精製はともかく爆縮させる機構が難しいのであんな簡単にはいかないとのことではあった。作中では原爆として起爆できたかどうかがはっきり描写されなかったから、実はできてなかったという解釈も可能か。
- 上述のあらすじはどちらかというと山下視点で記述したが、実際のプロットは城戸と山下の両方の視点で進むサスペンスである、つまり城戸の意図はおおむね早い段階で観客に開示される。むしろおそらく城戸視点のシーンの方が多く、ピカレスク調のストーリーと言うこともできそうである。そのため一見シリアスな話に見え実際に演出もそうなっているが、筋の本質はむしろ喜劇的である。つまり城戸と山下のどちらのすることも結構わかるナア、でも両方の望みは叶えられそうにない、なんとかならないかナアという喜劇型の葛藤で話を進めていく構造のプロットになっている。観客がもし城戸のように原爆を手に入れてしまったらやはりそれを使って望むものを手に入れようとするかもしれないし、山下の立場だったらなんとしても城戸を捕まえようとするだろう、と思えるように語られているのである。ただ結末では残念ながら葛藤を解決できてなくて、そこが最大の欠点である。こういう話はどちらにもそれなりの幸福が訪れて終わらないとダメだろう。とはいうものの、総じて話運びは自然で、近頃の邦画には見られないレベルの高いシナリオである。
- ロケ撮影では無許可撮影や危険なスタント、交通妨害など相当な無茶をしたようで、予算を別としても今同じものを撮ろうとしてもまず無理だろう。しかしとにかく見ごたえのある映像の多い作品であることは確かである。現代と変わっているようで案外変わっていないところもある70年代後半の新宿の様子を眺めるのも楽しい。
75点/100点満点