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『うみねこのなく頃に』episode 3

 引き続きプレイ。

 ストーリーの基本構成はepisode 1~2と同じ。ただし、このループでの重要な新展開として、絵羽が黄金を探しだすことに成功して魔女の座を引き継ぎ、事件からの唯一の生還者となったこと(てっきり一人でも黄金を探し出せば連続殺人はそこで中止されるのかと思っていたが、そうはならなかった)、赤文字で「島内に親族及び使用人の都合18人以外はいない」こと及び「物語の終盤の殺人で、既に死亡したとされていた人々は確かに死んでおり、かつ生存者の中に犯人がいないにも関わらず、当該他殺は魔女又は人間によって行われた」ことが明らかにされたこと、そして今まで親族会議の欠席者として登場しなかった唯一の親族、縁寿が今回の結末でついに登場して新主人公となり、ベルンカステルによってベアトリーチェに対抗する魔女(!)とされたことなどがある。
 上述の赤文字の内容は、それが真実なら人間犯人説からは矛盾しているとしか考えられない。こうなると人間説を維持するには語り手の問題しか残らない。いま思いつく説は、そもそもメタ世界も含めた包括的な語り手がいて、彼・彼女が犯人なので赤文字部分も含めて事実をゆがめて伝えているといったところか。メタ世界の出来事も含めて全部読者に報告できそうな立場にいるのは、現実世界の人間には今のところ戦人しかいない。もともと戦人は3つのループの中で終盤まで共通して生き残っている唯一の人物で、怪しいと言えば怪しいのである。今回戦人犯人説は赤文字ではっきり否定されたが、赤文字自体戦人が報告しているのならそれに意味はない。メタ世界の戦いは戦人の創作なのか。戦人を犯人として告発するためというのが今回今頃になって縁寿が登場した理由なのかも知れぬ。そうすると第4話からは語り手が変更されるということなのか。
 戦人が犯人でないにしても、今一つ二人とも何をやりたいのか、どういうルールなのか、どうにもよくわからなかったメタ世界の推理合戦が、縁寿の登場で仕切りなおしてくれるのなら、それはよかったと思う。

『うみねこのなく頃に』episode 2

 結局買ってしまった。…ただし、中古で。

 第二話に入り、episode 1(体験版)の事件の歴史を再度繰り返して事件の真相にさらに迫る話、という説明ではとても納まらない極めて技巧的なストーリーになってきた。ざっくり言うと、この話はメタ世界と物語世界の二層構造になっていて、物語世界で起こることの骨子はepisode 1と共通、孤島に集まった親族及び使用人らがやはり皆殺しになる話である。ただし、殺される人間の順番に多少の違いがあること、そして何より、episode 1では間接的に語られるだけで決して姿を見せなかった魔女ベアトリーチェが、この話では地の文で物語世界に堂々と登場し、魔法の力を振るうことが大きく異なっている。今回ばかりは魔女ベアトリーチェが悪しき動機により皆を殺す話という他なく、episode 1と異なり彼女に主人公たる資格があると言わなければならない。もっとも、物語に主人公たる資格がある人物が2人出て来て、その動機の一方が善いもの、もう一方が悪いものであるときは、後者は主人公(プロタゴニスト)というより敵役(アンタゴニスト)と呼ばれるべきだろうが。
 一方、メタ世界では、ベアトリーチェと戦人が物語世界の出来事について魔女犯人説・人間犯人説のそれぞれの立場から推理ゲームを繰り広げることになる。このメタ世界の出来事は、episode 1ではエピローグ相当の部分におまけ程度にあったに過ぎないが、episode 2では大きく前面に出てきている。
 ……とまあ、この程度の説明では到底まともに説明したことにはならない、とにかくややこしい話である。

 この話、技巧的なあまり少々混乱しているようなのが気にかかった。何よりよくわからないのが、メタ世界での丁々発止の前提として、物語の地の文に出てくる表現をどのように扱うつもりなのかである。この話だと、堂々と地の文でベアトリーチェが魔法を使っているのだから、普通に解釈したらそこで魔女の仕業だったということで確定してしまうはずなのだが、メタ世界の二人はその点はあっさりスルーして赤文字部分は絶対正しいとかなんとか言っている。それじゃ物語の地の文は信用できないのが当然の大前提なのか。確かに当ブログの筆者はepisode 1で真里亞の報告の信頼性を疑ったが、そのような説を採用するならするでその時点でその旨の立場と根拠を戦人にはっきりさせてもらわないと困る。episode 2では瓶の手紙も出て来なかったがどうするのか。バラ幻覚説(紅茶も怪しいが)を採るにしたって、その幻覚を見たのが誰かがわからないのでは困る。
 また、メタ世界の設定も混乱を招くところがある。メタ世界でのベアトリーチェは魔女犯人説論者、戦人は人間犯人説論者ということになっているはずなのだが、ベアトリーチェが赤文字で真実を語ることができるという設定を持ち出した結果、ベアトリーチェの魔女犯人説論者の「プレイヤー」としての立場が微妙になった。というのは、赤文字で答えるときは真相に拘束されて答えるらしいが、真相を知っていてなお魔女犯人説なら当然それが真相であって、推理勝負も何もないではないか。あるいは、ベアトリーチェが自説に都合のいい設定を後付けし放題になっているように見えてしまう。思うに、赤文字で答えるのはベアトリーチェでなくベルンカステルの役目にするとか、戦人の相手は真里亞にするとか、混乱を招かないベターな方法があったはずである。

 展開が展開なので犯人推理の意気は上がらない。『そして誰もいなくなった』と異なり、この話では第三者が島にいないことを一切確認していないので、誰かしら潜んでいる可能性はあると思っていたが、まさかベアトリーチェが人間として堂々と玄関から入ってくるとは予想外であった。
 例によって話がなんの断りもなくループしたが、すべてのループで犯人が同一であることは仮定していいのだろうか?

『サイコブレイク』『Alien: Isolation』(ゲーム動画)

 相変わらずゲーム動画を観ている。
 ゲーム動画には小中学生あたりを相手にしているタイプと、もう少し上の層を狙っているタイプがあって、前者は任天堂のゲーム機やスマホで動くゲームを、後者はPS4やPCで動くゲームを取り上げることが多い。有名なヒカキン氏は前者だが、筆者が見ているのは後者のタイプである。
 その後者のタイプのゲーム実況者の間で、ここ数週間トレンドとなっているゲームが表題の2作品。いずれも10月に発売されたゲームだが、両者ともぼちぼち最後までクリアする実況者が出てきた。

 『サイコブレイク』(英語版の名称は”The Evil Within”)は、『バイオハザード』のディレクターだった三上真司氏の率いるゲーム会社が制作した、現代風バイオハザードといった雰囲気のTPS。基本的には例によって、ゾンビが大量発生しているのをピストルや猟銃で倒しつつ、アイテムを集めて扉を開け、先に進んでいくゲームなのだが、最近の流行を採り入れて多少ステルスゲーム的な要素も入っている。ステルスゲームというのは要するに『メタルギア』風の、敵の目を忍んでかくれんぼしながら進むゲームのこと。本作では、敵に気づかれなければスニークキル(いわゆるバックスタブ、つまり背後にこっそり近づいてナイフで一突きにして殺すこと)ができるので、弾薬の節約になるというシステムになっている。
 公式にはホラーゲームというジャンルになっているものの、筆者の見たところ、サスペンスフルではあるものの、ホラー要素はほとんどない。ジャンルとしてのホラーは、対抗方法がわからない正体不明な脅威に襲われることを指す言葉であるところ、このゲームに登場する敵は大体武器で対抗できるからである。銃や罠で頭や体を吹っ飛ばされたり、スニークキルで頭にナイフを突き刺されたりといったグロテスクな死にざま表現などは山ほど出てくるが、それはホラーというよりスプラッターというべきであろう。このゲームがホラーなら、ホラーゲームでないゲームを探す方が難しいことになる。過去に実況界で流行ったゲームで言えば、『Five Nights at Freddy’s』やSlender Manのシリーズなどが典型的なホラーゲームである。

 多くの実況者はPS4版でプレイしているものと思われるが、やはり今どきのゲームだけあって、映像表現のレベルはかなり高い。特に汚しの表現が凝っている。素晴らしいとは思うが、一体どれだけの開発費が掛かったことか。ゲーム開発費の高騰がゲーム界にもたらす悪影響を考えると心配になる。

 その一方で、ストーリー面については、相変わらず進歩の歩みが遅いように感じられた。主人公に正当な行動の目的を与えるという基本的なところすら満足にできていない。結局、敵が出てきたから倒す、鍵がかかった扉が出てきたから開ける方法を探すという初代バイオハザードの頃のレベルから何も変わっていない。一通りステージ内でやることをやったら大した意味もなく建物が崩壊して別のステージにワープするのみである。また、事件の背景が話を通じて思わせぶりに示唆はされるものの、結局結末まで見ても真相が十分明らかにならない。これでは何のためのストーリーかわからぬ。
 とはいえ、それでも飽きずに動画を観ていられるのだから、アクションゲームのストーリーなんてものはこんなもんでいいのかも知れない。アクション映画のシナリオみたいなもので、付けたしなのである。

 ところでこのゲームは、はっきりとそう言明されているわけではないが、どうも制作側自ら、実況動画がアップロードされるように著名な実況者に対して働きかけているような節がある。バイオハザードの開発者が作ったとはいえ、新しいシリーズなので知名度がないわけで、そうすることで露出を増やしていこうという戦略なのかも知れない。実況動画というものが、ゲームの売り上げにプラスになるのかマイナスになるのか、今のところ業界的にはっきりとした答えは出ていない。今回は新シリーズであることもあって、一か八か試しにプッシュしてみてどうなるか見てみようということなのだろう。果たしてこの結果が吉と出るか凶と出るか、業界的にも注目されるところだろう。個人的には、平均的にはアドベンチャー性の高い作品の場合マイナスとなる可能性の方が高いのではないかと思っているが、知名度のないタイトルだとなんとも言えない。また、違法な動画などのファイル共有をしている手合いがよく言う言い訳「無料で手に入るから手に入れたまでで、もともと購入してまで見たいものではなかったので、ソフト商品の売り上げに損害は与えてない」は、ある程度当たっているところもあり、同様なことが実況動画にも言えるかも知れない。つまり、発売前から楽しみにしているような層は実況動画など見ずにさっさと手に入れて自分でプレイするので、売上に与える悪影響は少ないのかも知れないのである。

 『Alien: Isolation』は、その名の通り映画『エイリアン』(1979)の世界設定を元にした、TPSステルスゲーム。『エイリアン』で主人公のリプリーが行方不明になってからしばらくあとの時代が舞台。リプリーの乗っていたノストロモ号のフライトレコーダーが見つかったらしいというので、リプリーの娘の主人公アマンダがそれが置いてある巨大宇宙ステーション調査に行くのだが、そこにはあのエイリアンが住み着いていた……というストーリー。ゲーム中ではノストロモ号そっくりの宇宙船を歩き回れるほか、シガニー・ウィーバーの音声が聞けるシーンもあったりして、エイリアンシリーズのファンには気になる作品。
 しかし、SEGAが開発した作品であるにも関わらず、なぜか日本語版が発売されておらず、今のところその予定も発表されていないとのこと。そのため実況もすべて英語版でされており、ストーリーの把握が不十分になってしまうのが残念。
 とはいえ、ゲーム部分だけ見てもなかなか興味深い作品で、とにかくエイリアンが怖い。もともと武器の数が少ないうえに、エイリアンに対してはほとんど武器による攻撃が効かないというシステム。ゲーム中盤以降は火炎放射器で一時的に追い返すことだけはできるようになるが、燃料がすぐ尽きるので、結局モーショントラッカー(オリジナルの映画にも出てきた周囲で動くものを表示するレーダーのような装置)を見ながらこっそり忍び歩くのを基本にするしかない。その点『サイコプレイク』と比べて、ステルス要素やホラー要素が大きいとも言えそうである。
 ただ個人的にステルスゲームは、ストレスフルなばかりで気持ちよさがないので、敢えて購入してまでプレイしてみたいとは思えないジャンルである。何度も捕まったりしていたらすぐに投げ出しそうで、実況動画で見るのに適したジャンルであると思う。

『うみねこのなく頃に』体験版(同人PCゲーム・2007)

 『ひぐらしのなく頃に』の同人サークル07th expansion(竜騎士07氏)により2007年から2010年にかけて制作されコミックマーケットで販売された、大きく言えば『ひぐらし』の後継シリーズが『うみねこのなく頃に』。その第一話に相当する部分を収録した体験版。
 とにかくこのシリーズは、謎解きが不十分なまま完結したことなどで、ネットで大変な悪評を受けていることで有名。それもあって体験版のプレイを終了した現時点でも製品版を購入すべきか迷っているところであり、ひとまず体験版部分だけの短評を記しておく。

 話の中身だが、『ひぐらし』の元ネタが横溝正史の『八つ墓村』だったとすれば、今回の話の元ネタは明らかにアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』だろう。この『うみねこ』のあらすじをざっくり言えば、絶海の孤島に建つ大邸宅に老富豪と使用人たちのみがひっそりと住んでいたところに、あるとき息子や娘たちの家族が親族会議のために集まってきたのだが、折悪しく台風がやってきて外部と孤立した状態となり、そのため足止めを食っている数日の間に、島にいる人間が不可解な詩によって予告された通りに何者かによって次々に殺されていき、警察がやってきたときには全員殺されていたという話である。類似性は明白だろう。最後に瓶詰の手紙が出てくるところもそっくりだが、残念ながら現段階では真相は明らかになっていない。
 老富豪はこの島に住むとされるベアトリーチェという姿の見えない魔女の存在を信じていて、物語の中ではこの連続殺人がこの魔女の魔法によるものかも知れないことが示唆され続ける。それに対して、老富豪の孫である主人公戦人(ばとら)は、そんな馬鹿なことがあるわけがない、これは島にいる人間の犯行に違いないと疑い続ける。そのあたりは、やはり死の原因が祟りか人間かが論点となった『ひぐらし』と同じである。また、どうやらこの後話がループするらしいところも共通する。
 アリストテレスは二つのドラマが同じかどうかは謎とその解決が同じかで判断するのが正しいと言っている(『詩学』1456a)。『ひぐらし』もそうだったが、この『うみねこ』も謎の主要な部分は元ネタとかなり類似しているので、オリジナリティを出すとすれば解決の部分しかない。『ひぐらし』ではその内容に批判はありつつもともかく独自の解決が付いたが、本作のように作者が謎解きをしないとなるとオリジナリティを出しようがないのではないか。それが現時点でやや気がかりである。

 作劇上興味深いことは、『ひぐらし』『うみねこ』における元ネタ作品との共通点に鑑みるに、竜騎士07氏の作劇スタイルは、アリストテレスが説くように「真相を作ってからプロットを考える」のとは異なり、「プロット(の骨子)を作ってから真相を考える」形らしいということである。プロット(謎)から真相(謎解き)を考えるという順序だと、謎そのものはやりたい放題に作れるから、読者の興味を惹くという面では有利だが、謎解きを考えるという面では真正面から読者と知恵比べすることになるので作者にとってかなり不利なはずである。なんとか読者を出し抜けたとしても驚きが小さいか、あるいはなんらかの破綻を含む解決となる恐れが高い。ただ今回に限って言えば、なにしろ謎解きをしないで済ますという話だから、これはこれで正解なのかも知れない…なんとなく納得がいかないが。

 それでも一応犯人について考えてみたいが、ただ現段階では情報が出きっていないはずだから、今推理してみてもどうせ意味のある結果は出ないだろうとも思う。『誰もいなくなった』に鑑みれば、誰が死んだかすら本当のところは定かでない。実際、作中では殺人が起こるたびにろくに死亡確認もしないまま事件現場の部屋をロックアウトしている。また、『ひぐらし』でも死体のすり替えトリックがあった。
 また、この作者は前作『ひぐらし』で「信頼できない語り手」の手法を用いていることから、地の文の記述と言えども容易に信用できない。特にこの話の終り方では、この第一話の語り手が真里亞だったと解釈できる余地があり、魔女を信奉する彼女が事実をゆがめて報告した可能性も否定できない。あるいはバラに幻覚作用でもあるのかも知れぬ。こんなことを言い出したら推理小説なんて成立しないのだが、この作者は、本当は推理小説と言うよりツヴェタン・トドロフが言う意味での幻想文学を目指している節がある。しかしこの点はひとまず置いておく。

 『ひぐらし』でもそうだったが、この話は差し当たり序盤である現段階では、連続殺人が人間によるものではなく、超自然的な力によるものと考えた方が、自然と言えば自然な話になっている。『ひぐらし』と比べるとさらにその点が強調される終わり方である。にも関わらず、やはり大半の読者は最終的には人間の犯行であることが明かされるはずだと期待しているはずである。この期待はどこから来るのだろうか。この話のジャンルがミステリーだから、と言いたいところだが、あいにくタイトル画面のどこにもこの作品がミステリーだと明示されてはいない。
 けだし、これは語り方から来ている。物語の語り手は、すべてが終わったあとに聞き手に出会い、すべてを知ったうえで出来事を語っている。だから、もしこれらの殺人が魔法によるものだったなら、語り手は結果的に無駄な疑問に過ぎなかった人間の犯行という可能性について詳しく語ったりしないはずである。にも関わらず詳しく語っているということは、やはり人間の犯行だった可能性が高いと解釈されるのである。
 あるいは、もう少し具体的にこう表現することもできるかも知れない。ドラマには、主人公の行動がドラマの結末に重要な影響を与えなければならない(ドラマの結末は主人公の行動の結果でなければならない)という規則がある。これはいわば主人公の定義である。ところが、魔女が実在して予言通り全員を殺したというのが真相だとすると、主人公戦人が作中でしている犯人捜しの活動は、してもしなくても全員死亡という結果に影響を与えないことになる。これは規則に違反する。今の話の内容を前提とすると、彼が結末に影響を与えうる道は、人間の犯人が実在して、彼がその犯人を見つけて犯行を防ぐ、という方向しか考えられないからこそ、読者は魔女否定説・人間犯人説を信じるのである。
 仮に、主人公がはじめから魔女の実在を信じていたら全員は死ななくて済んだというのなら話は別である。それなら主人公が信じないせいで全員が死んだと言えるので、規則に適合する。予言ではいずれにせよ全員死亡することになっているから、今のところの話の内容ではこれはあまりありそうではない。ただ一つ気になるのは例の宝探し条項である。戦人が宝探しをしなかったから全員死亡した、ということは言えるかもしれないのである。とはいえ、戦人は挑戦してみたもののまったく手がかりがなかったわけだから、今のところそういうことは言えない。不可能な行動をしなかったことについて因果関係を認めることはできないからである。しかし、今後の展開でこの点に進展が見られれば、話はにわかに魔女の実在を前提としたものに転化する可能性がある。
 思い切って、この話の主人公は戦人でなく魔女ベアトリーチェなのではないかと考える方もあるかも知れない。しかしそう考えるにはベアトリーチェの行動の動機が示されなさすぎる。動機が示されないと何がまずいかというと、彼女の行動とそこから引き起こされた結果が倫理的に見てどのように評価されるべきかがわからなくなるのである。ドラマの結末として起こることは、倫理的に見て望ましいか望ましくないかでなければならない。例えば、正しい行為に利益がもたらされれば望ましい結果だし、正しくない行為に利益がもたらされれば望ましくない結果である。そして行為が正しかったか間違っていたかを示すためにはその動機の描写が不可欠なのである。ベアトリーチェが主人公だとするとこれらの規則に違反する。したがって、今のところ、ベアトリーチェ主人公説をとることはできないと考えるが、ただこれも今後の展開次第ではある。
 裏から言えば、読者が戦人を主人公だと解釈するのは、作中に戦人の出番が一番多いからというより、戦人の行動がその後に起こり得ること(事件の解決)の正しい動機として十分納得のいくように説明されていると感じているからであろう。

 現時点で娯楽性の面で特に問題だと思うのは、サスペンスがかかり始めるタイミングが遅いことである。『ひぐらし』にもそういう傾向はあったが、この話の方が問題が大きい。これは、『ひぐらし』では主人公が狙われているらしいことが明確であったのに対し、この『うみねこ』1話では主人公が殺されるべき人間の中に入っているのかどうかが終盤に入るまであまり明確にならない、もしくはそうであることが強調されないからである。ミステリー要素は濃くなったがサスペンス要素が薄まったと言える。

 そういう欠点はあるが、総合評価としては、ネットでの悪評にも関わらず、現時点では悪くない感触である。なかなか読ませる話になっていると思う。ただ、ネットの評判でも問題が顕著になるのはシリーズ後半からということになっているらしいので、製品版を買うかどうか考えどころである。

ゲーム動画

 WOWOWが錦織フィーバーで資金を使い果たしたのか近頃あまり大した映画を放送しないから、というわけでもないのだが、ここのところYouTubeでゲームの動画を眺める機会が増えた。
 今のゲームは、アドベンチャーやRPGなどストーリーを本質とするジャンルのゲーム以外でも、シングルプレイのモードがある大作ゲームであれば、シナリオがあるのが当たり前になっている。物語を消費したい筆者の立場としてはそのような作品のシナリオもチェックしたいところであるが、なにぶん手先の不器用な性質でもあり、ゲームを進めていくのがどうも億劫である。実際、過去には途中で放り出した作品もあった。その点、ゲーム動画であれば、勝手に最後まで進めてくれるので都合がよい。

 ゲーム動画にはいくつかのタイプがあり、昔からあるのは超絶な技術を誇るスーパープレイ(クリア時間を競うようなもの)を記録したタイプである。しかし最近流行っているのは、実況動画と呼ばれる、基本的には普通のプレイを、プレイ中のプレイヤーの肉声と同録した形の動画である。実況といっても、スポーツ中継のようにしていることを逐一描写するわけではないのだが、プレイヤーがその時々で考えていることくらいは話すのがふつうである。実況動画の場合、プレイヤーも初見でプレイしている(か、少なくともそういう設定でプレイしている)ために、見ている人間との一体感が強い。
 もっとも、実況動画も、さらに分類すると、基本的にはゲーム技術の高いゲーマーが初見でプレイしているか、又は実は既に練習プレイを済ませているが初見のようなふりでプレイしている効率プレイタイプと、本当にずぶの素人がプレイしているタイプがある。ちなみに最近名前をよく聞くヒカキン氏は後者のタイプであるが、やはり要領が一定の限度を超えて悪いと、見ているときにややイライラ感が出てくるのは否めないところである。

 ゲームのシナリオの質は平均的にあまり高いとは言えないが(出来事やゲームシステムを先に決めてストーリーを後付けしているとみられるものが多い)、ゲームそのものの楽しさや実況者の話術の巧みさもあり、見ていて退屈はしないことが多い。権利関係にかなりグレーな部分はあるのだが、ゲーム会社によっては売上に貢献するとして容認するところも出てきているようだ。YouTubeには広告収入をアップロード者に分配するシステムがあり、ヒカキン氏をはじめ専業者も続々登場していることから、今後も伸びていく分野かと思う。
 もっとも参入が容易なことから既に競争は相当激化しているようであり、話術が巧みでなければファンが付かない。また、人気の新作が出たら素早くアップロードしないとお客をとられるので、その早さを競う競争のようになっているところもある。洋モノゲームなどは日本語化される前にプレイを始めないとならないようで、セリフ等が英語のままなものだからストーリーが把握しにくい動画が増えている。ストーリーを語る英語はしばしば難度が高いので、なんとかなるさで始めて結局なんともならないことがある。

 筆者が定期的に見ている実況者を少しだけご紹介する。

兄者弟者(日本語)
ここはガッチマンのあれだ(日本語)
Markiplier(英語)

 なお、YouTubeの他にニコニコ動画にも多数アップロードされているが、日本語のものしかないのと、プレミアム会員とならないと画質が落ちるのが欠点である。ニコニコ動画はコメントシステムがウリだが、ゲーム動画の場合、コメントはかえって邪魔に感じることが多い。アップロードした人の励みにはなるのかも知れないが……

『清須会議』(2013)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 織田信長が本能寺の変で死んだとき、信長の後継者とされていた信忠も死んだだめ、事態がひとまず落ち着いた後、家臣団が清須城に集まって誰が織田家を継ぐべきかを決めることになった。これが清須会議。本作は、この史実に基づいた三谷幸喜脚本・監督の時代もの映画。
  • 清須会議では、いずれも有力な家臣である羽柴秀吉と柴田勝家とが、それぞれ自陣に都合のいい別の織田家の人間を後継者として推すことになる。そこで結局どちらに決まるのかというのが、一応話の葛藤になってはいる。なってはいるが、観客の立場からは、その結果にあまり興味を持てないというのが正直なところである。これは、観客が秀吉側又は勝家側を応援する理由が特にないからである。秀吉も勝家も結局自分の都合で動いているのでしかないからである。そしてまた、誰が後継者になろうが、結局その後天下を取るのがその人物でなく秀吉であることは日本人なら誰でも知っているからである。
  • 三谷幸喜は人間関係の描写は上手いけれど、筋を作るのはかなり下手。初期の作品は大体元ネタ作品があって大筋それに忠実に作っていたようなのでよかったけれど、最近のように史実を元にしてシナリオを書くようになってからは、史実というものが必ずしもドラマチックでないことから、あまり筋の出来が良くないものが増えたように思われる。本作もその傾向の例外ではないようである。

50点/100点満点

『ゾディアック』(2007)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 1968年から74年にかけてカリフォルニアで発生した連続殺人事件で、『ダーティーハリー』(1971)のモデルにもなった「ゾディアック事件」を題材にした話。現在も未解決ながら、ある漫画家がこの事件を詳しく調査して一冊の本にまとめたのだが、その調査の過程を描いたもの。
  • 調査することそのものを主人公の動機にしてしまったものだからドラマになってない。画面上で主人公が熱意をもって行動していることと、実際には何の関係もない人間が本を書くために調査しているにすぎないという事実とが不釣合いで、主人公の演技が不自然に見える。
    冒頭に「これは実話である」と出てくる映画にろくなものはないという法則の実例がまた一つ増えた。

『伝説巨神イデオン 接触篇』『伝説巨神イデオン 発動篇』(1982)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 西暦2300年代の遠い未来が舞台。人類は地球の植民星ソロ星で第六文明人の遺跡に残された宇宙船ソロシップとロボットイデオンを調査していた。そこへ無限の力「イデ」の手がかりを求めて別種の人類バック・フランの軍がやってきて、地球人類との間で偶発的な戦闘となる。結局ソロ星はバック・フランによって壊滅させられるが、その過程で遺跡のソロシップとイデオンが動き出し、地球人類はそれに乗って脱出する。そのとき、ひょんなことからバック・フランの高官の娘カララがソロシップに紛れ込んでいたことと、バック・フラン軍がイデオンを手に入れたいと望んだことから、ソロシップ一同はバック・フラン軍に執拗に追われることになる。地球に戻ってもバック・フランに追われているために危険すぎると受け入れを拒否されるソロシップの一同。やむなくバック・フランと戦いつつ追われつつの日々を過ごすうち、ソロシップとイデオンは無限の力「イデ」で動いていること、それ自体が意思をもちソロシップにいる乳児を守るために行動しているらしいことがわかってくる。そしてまた、イデは地球やバック・フランの母星に隕石を降らせて滅ぼそうとしているらしいこともわかる。紆余曲折の末、イデオンとバック・フランは最終決戦に臨み、バック・フランの最終兵器ガンド・ロワと相打ちになるような形で両軍とも消滅。相前後して地球とバック・フランの母星も滅亡する。両陣営の人類たちは星になり、カララが身ごもっていた両人類の混血児である新生児メシアに導かれて新惑星に集結、新しい人類として生まれ変わるのだった。
  • 『機動戦士ガンダム』の富野喜幸がガンダムの直後に制作したものの、未完のような形に終わっていたTVアニメシリーズの劇場版。接触篇はTVシリーズの総集編、発動篇は完結編の位置づけ。当時の人気はいまひとつだったようだが、今となっては『新世紀エヴァンゲリオン』の元ネタの一つとして有名な作品。本作品自体は『禁断の惑星』(1956)やアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』に影響を受けているとみられる。
  • 富野自身も問題を認めているようだが、とにかく全部合わせて3時間強しかないので、TVシリーズなしに鑑賞するとストーリーについていきづらい。場面場面で何が問題になっているのか細かいところがわからない。人間関係の描写も薄いので、主要人物全員死亡という悲劇的結末の割に感慨が薄い。そもそも第六文明人って何。全然関係ない二つの星の人類がほとんどそっくりで生殖可能なのはどうして。しかしとにかく、いろいろエヴァに似ていることだけはよくわかった。

『ひぐらしのなく頃に』(同人PCサウンドノベル・2002~2006)

 今回は映画ではないがこのカテゴリで。
 「ひぐらしのなく頃に 全部パック」ダウンロード販売版にてプレイ。

  • プレイ未経験の方は、まず無料の体験版(第一話が丸々収録されている)をプレイされることを強くお推めする。一つだけ助言させて頂くと、出だしは出来の悪い日常系アニメのように感じられるかも知れないが、それは綿流しの祭が終わるまでの話。そこからは話に強く引き付けられるようになるので、それまで辛抱して読み続けるべし。なお、今から有料版を購入されるなら、筆者の購入した全部パックの内容に2014年のコミックマーケットで発表の新作が追加された「ひぐらしのなく頃に 奉」のパッケージで購入された方がいいかも知れない。
  • 舞台は昭和58年6月、中部地方にある過疎の村、雛見沢。そこへ都会から越してきたばかりの中学生、前原圭一が主人公。彼は小学校中学校兼用の村の小さな分校へ通うことになり、クラスメートの竜宮レナ、園崎魅音、北条沙都子、古出梨花らとさっそく仲良くなる。放課後教室で彼女らと室内ゲームで遊んだり、ピクニックに出かけたりして、都会の慌ただしさとは無縁にのんびり楽しく過ごす毎日。
     そんなある日、圭一は偶然、村によく撮影に来ているというフリーカメラマン富竹ジロウに出会う。それをきっかけに、圭一は雛見沢に過去ダムの建設計画が持ち上がったことがあり、雛見沢がダムの底に沈むところだったが、村民が過激な反対運動を展開した末、それを中止に追い込んだこと、またその頃ダム建設の現場責任者が殺され、犯人がまだ捕まっていないこと、反対運動との関連が疑われていることを知る。平和そうな雛見沢に似つかわしくない過去に圭一は不安を感じる。
     6月19日が来て、村の神社、通称「オヤシロさま」で村の夏祭り「綿流し」が行われる。祭りは村人でいっぱいだ。そこへ連れ立って遊びに行く圭一とクラスメートたち。そこで圭一は偶然、富竹と再会する。一緒にいた富竹の恋人で、村の診療所の看護婦でありまた村の郷土史マニアでもある鷹野三四から、圭一は気味の悪い話を聞く。曰く、この村では最近4年間連続して綿流しの晩に村人1人が死に、別の村人1人が失踪する事件が起こっているのだという。1年目の死者は以前知ったダム建設の現場責任者であり、失踪者はその犯人と目されている作業員。その翌年以降の死者と失踪者たちはみな、過去のダム建設で反対運動に協力的でなかった村人たち。それぞれの死の原因は、殺人であったり自殺であったり病死であったりさまざまだが、とにかく特定はされており、警察では互いに関係がない事件と扱われている。だが、実は村には伝説があり、それによるとオヤシロさまを怒らせると祟りがあり、それを鎮めるには人間を生贄にささげる必要があるのだという。この生贄になることを雛見沢では鬼隠しという。村人たちは村人の死はダム建設に反対しなかったことによるオヤシロさまの祟りによるもの、また失踪者は鬼隠しに遭ったものと信じていて、今年も同じ事件が起こるのか、皆が恐れているのだという。
     翌日、圭一が例によって放課後クラスメートたちとゲームに興じていると、地元警察の刑事大石がやってくる。圭一は一人大石の車に乗せられその中で話を聞くことになる。大石曰く、富竹が昨日の晩、圭一らと別れた後、自ら喉を搔き毟って自殺していたのが見つかったという。また、一緒にいたはずの鷹野は行方不明。結局5年目も祟りと鬼隠しが実現したようにも見える。しかし大石は、祟りなどというものは信じない、村人の中にこの連続殺人・失踪事件の犯人がいるのではないか、特に圭一の仲良くしている魅音をはじめとするクラスメートたちが事件になんらかの関わりがあるのではないかと以前より疑っているといい、今年転入してきたばかりの圭一に、何か気づいたことがあったら情報提供して欲しいという。
     果たして5年続いた殺人・失踪事件は祟りなのか? それとも人間の仕業か? もし人間の仕業なら犯人は誰なのか? 喉を搔き毟って自殺するとは一体いかなる原因によるものか?
  • 2002年から2006年にかけて順次コミックマーケットで発表・販売されたPCゲーム。第一話にあたる「鬼隠し編」、第二話「綿流し編」、第三話「祟殺し編」、第四話「暇潰し編」、第五話「目明し編」、第六話「罪滅し編」、第七話「皆殺し編」、第八話「祭囃し編」及びエピローグ「賽殺し編」で構成されるサウンドノベル。プレイヤーが行動を選択するというアドベンチャーゲーム的要素はほぼ皆無、プレイといってもただ読むだけの純然たるサウンドノベルである。ただ、背景と立ち絵程度の絵は付いている。
     短めのエピローグを除く各話はそれぞれ7~10時間程度のプレイ時間を要し、テレビドラマシリーズならワンクール程度の内容に相当するボリューム。それらがオムニバスというのでなくちゃんと話が続いた形で8話分以上あるのだから、大長編である。
     話のジャンルとしては悲劇に属する。ミステリー(≒嘘つき探し)要素も濃厚で、実際ミステリーもののような売り出し方もされていたようだが、本当にそう呼んでいいかについては、ファンの間に異論もあるようである。
  • 同人ゲームながらアニメ化映画化などもされた有名作。しかも、オタクカルチャーでループものを流行らせた震源地となった作品とのことで、プレイしてみた次第。各話がそれぞれ1つの歴史(ループ)に相当している。冒頭に記したあらすじは大体各ループで共通する序盤部分である。
     この作品にはギャルゲーからの明らかな影響があり、各話にメインキャラクターが設定されている。メインプロットは、その身に共通して起こるあることが描写の中心となる。
  • このゲームに限って言えば、確かに「ループ=セーブポイントからの再スタート」という考え方によくなじむと思う。というのは、原則として以前のループの記憶が主人公に引き継がれないからである。ただそうすると、いくらループしても以前と同じことが繰り返されてしまいそうなところだが、この作品では外的環境が確率的に変化するというからくりでそれを回避している。あまりアドベンチャーゲームらしくない発想ではある。ただ結局、以前のループで悪かったところを修正しようとすれば以前の記憶がどうしても必要になるわけで、終盤においては結局各メンバーにわずかながら記憶が戻る、また(以下ネタバレ部分は反転させて読んでください)ある人物だけは記憶をほぼすべて引き継げる能力を持っているという折衷的な設定になっている。
  • 本作の元ネタと思しきものはいくつかあるが、中でも元祖ミステリサウンドノベル『かまいたちの夜』(1994)の影響が少なくないように感じられた。特に、同ゲームをプレイした者を例外なく茫然とさせたことで有名な「スキーストック死」ルートの影響が大きいように思われた。この作品についてはネタバレ宣言していないので詳しくは書かないが、要はこのルートだと主人公が誤解されて仲間に殺されるのである。この相互不信による仲間同士の殺し合いというアイデアが、本作品のストーリーの基本アイデアになっている。もっともこれは、古典的悲劇のパターン通りでもある。
  • とにかくシナリオのコンストラクションが神がかり的に素晴らしい。脚本家は、古典的・アリストテレス的な意味での悲劇の詩学(作劇法)をまれに見る正確さで理解して使いこなしているように感じられた。そしてまた世界観もしっかりある。そこだけとればほとんど理想的な出来で、こういうドラマを書ける人が日本にいたとは驚きである。もっともこういう神がかり的作品というのは、いくら才能があっても、しばしば一生に一本しか書けないものではあるが…

95点/100点満点

『桐島、部活やめるってよ』(2012)【ネタバレ】

 WOWOWにて昨年放映されて録画してあったものをやっと鑑賞。

  • とある高校のバレー部のエース桐島が大会を目前にしたある日突然部活をやめ、学校にも来なくなった。一方、映画部の部長である前田はゾンビ映画の制作を開始する。そんな1週間ほどの間の、学校を舞台とした等身大の友情と恋愛とを、数人の生徒の視点から描いた青春ものドラマ。
  • オムニバス形式だった原作小説を一本に結合したようなシナリオで、全体的にははっきりとしたストーリーが存在しない。シナリオ形式としてはグランドホテル形式に近いが、視点が切り替わったときに時間も戻ることがあり、その意味ではループものに近いとも言える。また桐島なる人物は最後まで明確な形ではシーンに登場せず、不条理演劇の代表作『ゴドーを待ちながら』を思い起こさせる。
  • 桐島はなぜ部活を辞めたのかという疑問が、この話のテーマとなる。そしてその答えは最後まで明確な形では示されない。しかしヒントはちりばめられていて、おそらく「いくら部活を頑張っても、結局何者にもなれないと考えたから」というのが答えだというのが一応無難な解釈かと思う。桐島がいたように見えた学校の屋上に前田がいたことは、その屋上シーンにおいて前田が桐島を代理する象徴であることを意味する。その前田がそのような考えを述べていることは、この解釈の最大の決め手となる証拠である。少なくとも、この話の語り手である菊池はそのように解釈したはずで、さもないと最後の屋上シーンからラストにかけての彼の行動は説明がつかない。また、屋上に駆けつけたバレー部員たちの前田に対する態度も、桐島の辞めた別の理由の一つを説明しているかも知れない。
    もっとも、映画を見ている間は、むしろ桐島はいつ現れるのかの方に気を取られる。そのせいで、この話の重点が「なぜ」の問いの方にあるということを理解しにくく、話の展開の先を読みにくくなっており、それがプラスにもマイナスにも作用している。
  • 2012年度の日本の映画賞を総なめにした作品。まあ、リアリティ重視の演出もあって、確かに昨今の日本映画の中では観られる方だし、キャラクター描写など優れているところもあるので、それが不当とは言わないが……全体としては率直に言って退屈な作品で、見終わるのに1年もかかったのも一つにはそのためである。前述の疑問をもっとわかりやすく観客の関心を引き付ける謎として提示できないと、映画としての面白さが足りない。

50点/100点満点